20001025


オリンピックとベトナム戦争

海野ひろし


 NHKの朝の連続ドラマで、こんなシーンがあった。家族全員がテレビの前に正座して、東京オリンピックの入場行進を見ている。一九六四年十月十日である。当時、大方の人がそうだったように、ドラマの人物たちも平和の祭典に酔いしれていた。ただ、父親だけはオリンピックの二カ月前の新聞を娘に見せ、米国がベトナムを爆撃したこと、平和ではないことを教えるのだった。
 連続ドラマで、トンキン湾事件が登場したことに、正直言って驚いた。と同時に、辛金丹選手のことも語ってほしかったと思った。
 朝鮮民主主義人民共和国の辛金丹選手は東京オリンピックの女子陸上四百と八百メートルで金メダル確実と言われていた。しかし、辛金丹選手たちは東京まで来ていながら参加が認められず、開会式直前に全員が抗議の引き揚げを行った。
 ことの発端は、東京オリンピックの二年前、第四回アジア大会にさかのぼる。当時のインドネシアは、インドなどと共に非同盟路線を取っていた。そして、インドネシアで開かれた第四回アジア大会で、台湾とイスラエル選手団の入国を拒否した。これに対し、国際オリンピック委員会(IOC)はインドネシアのオリンピック参加資格を停止させた。東京オリンピックの前年である。
 この決定に、インドネシアはIOCから脱退し、「植民地主義反対、民族自決」のスローガンを掲げて新興国スポーツ大会の開催を決める。そして、五カ月後に、四十二カ国二千人が参加した第一回大会がジャカルタで開催された。
 IOCはこれに対抗し、「参加した選手を資格停止にする」と脅しをかけてきた。資格停止は、オリンピック出場の道を閉ざす。
 東京オリンピックは、新興国スポーツ大会へ参加した選手の扱いで混乱した。日本はアジア初のオリンピックを成功させるために、最後にはインドネシアのオリンピック参加を認めざるを得なかった。しかし、新興国スポーツ大会へ参加した選手だけは資格がないとして、選手村へ入ることも拒否した。
 アジアからの参加国が減ることは困るが、それは非同盟諸国の主張を認めたことではないという苦肉の策であった。
 過去に対し、「もしも」という問いかけは禁句であるが、日本がインドネシアをはじめとする非同盟国の参加を拒んだら、アジア初のオリンピックという看板はかすんだものになっていただろう。逆に、平和の祭典として参加を求める国々に門戸を広く開けていたなら、ベトナムの戦禍は違う展開になっていたのかもしれない。
 アジアで初めて開かれたオリンピックは平和の祭典として盛大に開催されたと、多くの人は思いこんでいる。しかし、その裏側はアジアの平和をめぐる戦いの場だった。
 それにしても、朝の連続ドラマでベトナム戦争を語らせたことは、NHKとしては画期的なことかもしれない。 


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