20001015


東海豪雨被害から1カ月

被災者に冷たい行政

愛知 海老原豊


 東海豪雨被害から一カ月が過ぎた。被災地はいまなお被害の傷跡が深く残っている。二週間ぶりに行ってみると、ところどころの公園に山積みになっていた災害ゴミはほとんど撤去されていたが、放置自動車はまだ残っているし、ちょっと玄関をのぞくと、壁がこそげ落ち、床板がはずされて垂木がむきだしになったままの家が何軒もあった。
   *   *   *
 豪雨の翌日、私は西枇杷島町の仲間に会うために現地に出かけたが、途中から道が川になりとても近づけなかった。その日は、名古屋市西区にある避難所をいくつか回って帰ってきたが、ようやく仲間に会えたのはその二日後であった。
 夜中、目の前に迫った浸水に気がついて、何も持たずに裸足で飛び出し、集会所の屋根の上で十二時間も待ち続け救援されたとのことであった。当時、町役場の二階に避難していた彼は、「みな怒っとるよ。町役場がなんも動かん、人間扱いしとらんて」と言っていた。
 一階では罹災証明を受ける人びとが続々と訪ねてきており、避難所になった隣の公民館にはお年寄りばかりが無気力に横になっていた。ボランティアが応援にかけつけ、町の人は後かたづけを始めたばかりの頃だった。町は土ぼこりと独特の異臭に包まれていた。
 その後の一カ月、被災した人びとは、冠水したほとんどの家財道具を捨て、家を住めるように回復することに追われて過ぎた。だがいまでも避難所生活をしている人が約七十人もいる。ほとんどが借家住まいだったお年寄りだ。行政があっせんする公営住宅では、他の町に移ることになるし、家賃が高くて入れないのである。二カ月は無料でも、継続して四万から五万円以上の家賃を払うことはできないと切なさそうにしている。
 復旧をあきらめて、すでに廃業を決めた町工場も数多く出てきた。商店も折からの売上不振に、一気に数百万〜数千万円の借り入れをしての再出発となる。ある花屋さんは、「再開したが、お客さんに花を買う余裕がない。売上げは三分の一です」と言っていた。
 被災者には、床上浸水で五万円程度のわずかな見舞金が出た程度で、あとは各種の貸付制度しかないのが実態である。困窮している人びとは、行政はとても冷たいと感じている。
 


Copyright(C) The Workers' Press 1996-2000