20000925


やっぱ好きやねん

木を植える(下)

ひまなぼんぺい


 午前中、三カ所の植林候補地を回り、岩壁にへばりつくように立っているレストランで、山西名物の刀削麺の昼食をとった。大汗をかいたあと期待のビールは出ず、いきなり汾酒で乾杯である。汾酒は山西省杏花村で造られる銘酒で六〇度を超える強い酒だ。
 「三杯までは私が取り仕切るが、あとはご自由に」と副市長。彼女のこのセリフは食事のたびに繰り返された。
 三杯が終わると、テーブルを囲む人が次々に立って、乾杯攻勢が始まる。
 午後は、すでに修復されたり、あるいは改修中であったりする寺院や廟(びょう)の見学で、これまた何段も続く階段を上り下りする難行苦行であった。夕食でもひとしきり汾酒による乾杯があって、講堂のようなところで綿山宗教楽団が演奏会を開いてくれた。
 講堂には僕たちのほかに、この山のホテルなどで働いている人たち、寺院や廟の修復作業に携わっている職人さんたちが二百人くらい集まっていた。四方の窓からのぞき込んでいる人も大勢いる。
 介休市は、まだ半分程度しか外国に開放されていず、綿山に来る日本人は珍しいということであった。
 若い楽団員による演奏が数曲続いたあと、副市長が立ち上がった。中国では指導者の資格の一つに「声が大きいこと、というのがある」とは、中国通のIさんの言だが、彼女は張りのある声で堂々とした演説を始めた。
 「今日は〈中日友誼林〉をつくるため、三人の友人が日本から綿山にやってきた。日本との間には過去に戦争という不幸なできごとがあった。しかし、今回の視察を経て、友誼林の共同事業を成功裏に進めることができれば、長期にわたる中日友好を打ち立てることは可能だ。三人の友人が時間を割いて、遠路はるばる綿山を訪ねてくれたことは、この事業の成功を半ば保証しているのではないだろうか。皆さん、全員で熱烈に歓迎しよう!」
 最前列に座っていた僕たち三人が立ち上がると、大きな拍手が沸き起こった。作家協会のNさんが「何か一曲」、と僕に言う。
 「歌の前に」と断って、副市長と集まった人にお礼を述べ、初めのほうは中国語でしゃべったが、すぐにIさんに通訳を頼んで、次のようなことを話した。
 東京に戻っても、西を向けばここで会った皆さんの顔を私たちは思い浮かべることができる。また、皆さんもたまには仕事の合間に私たちのことを思い浮かべてくれるだろう。これが友好の基本だと思う。こんな関係がたくさんできれば、仮に日中間に何かの対立が起きたとしても、政府やマスコミの宣伝を疑ってかからせるだけの効用はある。僕の親たちが国策にまんまと乗せられて中国を侵略した愚を犯さないですむはずだ。
 これから日本の若者たちが綿山にやってきて皆さんとともに汗を流して木を植え、歴史のことなども語り合えば、石原慎太郎や森喜朗だけが日本人ではないことを知っていただけるだろう……。
 話を終えて、一九三一年の柳条湖事件を歌にした「松花江のほとり」を歌った。すると、Nさんが「日本の友人の気持ちにこたえて私も一曲」と、映画「紅いコーリャン」の主題歌を歌い、場は一気に盛り上がった。
 意義深い一夜で、僕たちはいつの間にか中日友誼林をなんとしても成功させなければという気持ちになっていた。
 翌日は介休市内の名所を参観して一泊し、七月十六日に北京に戻る途中、晋中市のホテルで党書記をはじめ市の幹部と中日友誼林について会談した。会談後、宴会を開いてくれた党書記は四十三歳と若く、二メートル近い偉丈夫。彼は一九八五年十月から十一月にかけて五百人の青年代表団が日本を訪れたとき、山西省青年聯合会主席として参加して各地を歩いたという。
 汾酒の乾杯攻勢が続く宴会の途中、「日本の酒は清酒というのだが、なぜだか知っているか? 米から造る中国の酒は黄色いが、日本の酒は米から造っても透き通っているからだ」と書記が同僚に言う。僕は待ってましたとばかり、一升紙パック入りの新潟の酒を取り出した。この酒は、「宴会の場を盛り上げるために」とIさんから言われ、東京を出るときに買ってきたのだ。
 日本酒も加わって和気藹々(あいあい)、実に楽しい宴となった。
 晋中市からは四駆のパトカーで高速道路をぶっ飛ばして送ってくれ、夕方には北京に着いた。
 木を植えること自体は、綿山の人を動員すればたやすいことで、実際、植林はずいぶん進んでいた。しかし、わざわざ僕たちを先遣隊として招き、費用と手間をかけて共同で植林をしようというのである。日中両国の若者の相互理解と友好をはぐくむことに中日友誼林の意義があり、それにかける介休市と晋中市の幹部の熱意をしみじみと知らされた旅であった。僕たちは第一次中日友誼林造営訪中団を来年の三月下旬に出そうと相談している。(終わり) 


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