20000915


やっぱ好きやねん

木を植える(承中)

ひまなぼんぺい


 連載は今回で終える予定だったが、綿山に残された日本軍の爪跡を『造営〈中日友誼林〉資料集』から紹介する。「承中」とは、前の文を受け継ぐという承前をもじった、「中」のつづきの意。
 綿山が春秋時代からの歴史を刻む山だということは今回はじめて知ったが、日本軍の犯罪の跡はこの山にも残っていた。
 一九三八年二月、侵略した日本軍は介休にも侵入し、県城と鉄道沿線を占領した。介休犠盟会、県政府と人民武装自衛総隊の五百余人は共産党の指導下、綿山に退去して抵抗し、綿山は抗日ゲリラの根拠地となった。
 三八年十月、抗日戦争が始まるが、三九年冬に第一次の反共の高潮が起こった。日本軍と国民党反共頑固派は抗日根拠地に大挙して侵入した。日本軍は四〇年一月、三手に分かれて綿山の根拠地に侵攻し、抗日軍民を挟撃しようとする。
 これに対し、綿山の抗日軍民は日本軍の主力を避けてゲリラ戦を展開、敵に打撃を与えた。日本軍は八路軍の主力と抗日機関を見つけることができず、身に寸鉄も帯びない民衆に暴威をふるい、ほしいままに殺戮(さつりく)した。
 四家窰という村では、数十人の村民を刺して井戸に投げ込み、深さ六〜七メートルの井戸は死体で埋まった。雲峰寺を占領した日本軍は、炊事員と和尚(おしょう)を捕らえ八路軍の武器と物資のありかを問いただし、拒否した彼らを惨殺した。日本軍は雲峰寺を略奪し尽くしただけでなく、立ち去るときに火を放つ。炎は数十メートルの高さに達し、岩山の頂が剥落(はくらく)し、寺の銅鐘は溶けてしまった。数千年の歴史を誇る名山は空前の被害に遭い、千三百年前に建立された雲峰寺の精美な古い建築と多くの貴重な歴史文物、塑像は灰燼(かいじん)に帰した。
 四二年二月、日本軍は再び綿山に大規模な掃討を仕掛け、二十余の寺院と廟(びょう)を焼き尽くす。ここには仏教と道教の各流派の壁画や塑像、千年以上も保存されてきた石刻や碑銘などが多数あったが、これらの文化遺産がすべて破壊されたのだ。
 四五年八月、介休県は抗日戦争期間中の損失を統計にした。
 統計は詳細をきわめ、日本軍の掃討・略奪は千八百七十回を超え、千六百八十人を殺害、一万九千八百三十人と役畜二千六百二十八頭を使役した。さらに、牛二百九十一頭、ロバ五百二十九頭、ラバ四百三十八頭、馬百三十九頭のほか、羊三千五百四頭、豚千二十二頭、鶏十三万八千六十五羽と穀物百八十二万四千三百四十六石を奪い、焼いた家屋は四千八十五軒に上る。(つづく) 


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