20000905


やっぱ好きやねん

木を植える(中)

ほまなぼんぺい


 夜行列車で十二時間、朝八時に介休市に着いた。
 駅では副市長はじめ数人が出迎えてくれ、パトカー二台の先導でホテルに向かう。ホテルには前日の午後着任したばかりという市長が待っていて、綿山文化研究会の会長さんたちとともに朝食をとりながら植林のことを話す。
 さらっとした粟(あわ)のおかゆと腐乳(豆腐の塩辛)が、疲れた胃をやさしく癒(いや)してくれるようで、実においしい。
 朝食後、市の中心部から二十キロのところにある綿山に向かった。
 綿山は海抜二千五百六十六・六メートル、相対高度一千メートル以上というから、介休市は海抜千五百メートルくらいに位置することになる。一帯は黄土高原で緑は少ない。窰洞(ようどう)があちこちに見える。窰洞は、ミッチーこと渡辺美智雄が「中国なんてまだ洞穴を掘って住んでる人間がいっぱいいるんだから」と言ってひんしゅくを買った、黄土高原地域の伝統的な横穴式住居である。建築資材があまりいらず、夏涼しく冬暖かい、合理的な住まいなのだ。
 頂上は靄(もや)に隠れて見えないが、山腹を巡りながらしばらく上ると、仏教や道教の建物が絶壁にはりつくように並び立つ場所に出た。
 まずは植林の候補地の視察だ。『造営〈中日友誼林〉資料集』(A4判二十ページ)をもらい、介休市の上のクラスの行政区である晋中市の林業局副局長の案内で三つの候補地を回る。この山歩きではついにひざが笑ってしまったが、女性の副市長は淡々と登り下りしている。
 途中、介子推(かいしすい)の墓の前で休んだ。介子推のことは宮城谷昌光の小説『重耳』(ちょうじ)に出てくるが、『造営〈中日友誼林〉資料集』から紹介しよう。
 介子推は紀元前七世紀、春秋時代の人。のちに晋の文公となる重耳が十九年間諸国をさまよったとき、介子推は彼に従って刺客から守り、食を探すなど大きな働きをした。「重耳が流亡の途上飢えて動けなくなったとき、自分の股(また)を割いてスープを作って食べさせた」という。
 文公は自分に従って諸国を巡った者に恩賞を授けたが、側近でなかった介子推の働きを彼は知らず、介子推は恩賞からはずされてしまった。介子推は何も語らず、官を捨て母とともに綿山に隠居した。
 一年後に介子推の功績を知った文公は、介子推と母が綿山にいると聞いて山に向かうが、避けて会おうとしなかった。文公は、山の三方から火を放てば、その間から介子推が出てくるだろうと考えたが、火は燃え広がり、焼け跡の大樹の下で介子推と母は抱き合って死んでいた。
 文公はこれを悔やみ、介子推を記念して綿山を介山と改め、清明節(四月五日ごろ)前の二日間を「寒食節」と定め、火を通さない物を食べるよう全国に号令し、哀悼の意を示した。
 介子推の紹介が長くなったが、それから約二千六百年後の一九四〇年、八路軍と抗日機関の根拠地だった綿山に、今度は日本軍が二度目の火を放った。(つづく) 


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