20000825


植山古墳の発掘に思う

日本はいまだに「神の国」

海野 ひろし


 奈良県橿原市は八月十七日、飛鳥京跡に近い植山古墳が、推古天皇と皇子の墓である可能性があると発表した。
 もし、これが発表の通りなら、天皇の墓に初めて考古学の調査が入ることになる。
 皇室典範の第二七条で「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵」と定めている。そして、この条文を根拠に、宮内庁は天皇陵は「墓」であるから、文化財ではないとして、立入調査を拒んでいる。
 このように宮内庁が「陵墓指定」して、立入禁止にしている墓は全国に九百もある。そのうちの二百四十は古墳として学術的な調査が必要といわれている。
 仁徳天皇陵に代表される巨大な前方後円墳は全国で三十あるが、そのうちの二十四が、宮内庁により天皇の墓と指定され、調査は手つかずのままになっている。
 「陵墓指定」も江戸末期から明治にかけて調べられたものが、そのまま今も続いているのであり、当時の考古学のレベルを考えると、そうとうに怪しいものが多い。
 たとえば、前方後円墳としては一番規模の大きな仁徳天皇陵を、土地の名前からつけられた大山(だいせん)古墳と呼ぶ人がいる。本当に仁徳天皇の墓なのか、証拠となるものがないからである。では、なぜ宮内庁は天皇の墓に現代の光を入れようとしないのか。なにを恐れて、立入禁止にしているのだろうか。
 陵墓指定された九百の遺跡に、考古学者の徹底的な調査が入ったら、天皇が朝鮮半島からの渡来人だったことが証明されることになるのではないか。
 古代の日本にとって、文明の先進地である朝鮮半島からの渡来人がもたらしたものは、計り知れないものがあった。天皇が権力を握ってゆくなかで、渡来人がその中心的役割を果たしていたと考えるのが当然である。
 宮内庁は、これは遺跡でなく墓なのだから調べるのは禁止という。でも、そうならば始皇帝の兵馬俑(よう)や、クフ王のピラミッドはどうなるのだ。どちらも、国を支配し、人びとから神と呼ばれていた。
 始皇帝やクフ王が神と呼ばれていた時代からおよそ千年の時が流れて、神の墓は、文化遺跡となった。
 同じ歴史遺産でも天皇の墓を学術的に調べることができないのは、そこに祀(まつ)られている天皇が、いまだに神として力をもっているということである。そのことを森首相は「神の国」と呼んだのかもしれない。とすると日本は、いまだに「神の国」なのである。
 


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