20000805


厚木基地に怒りのデモ行進
滑走路をはがしてやりたい

車から「がんばれよ」と声援

川崎市・茨木 京子


 七月二十日、神奈川県大和市で開かれた「厚木基地撤去をめざす神奈川集会」に参加した。本土にある米軍基地を見るのは今回が初めての経験だった。話には聞いていたが、実際に見てみると、沖縄にいるような錯覚を覚えるくらい厚木基地は巨大なものだ。
 基地に隣接する引地台公園には約四千人が集い、沖縄の嘉手納包囲行動の現場と互いの状況を報告し合う場面もあった。人間の鎖が三回目にして成功したとの連絡を受けたときには、厚木の私たちもどんなに歓喜し、勇気づけられたかわからない。離着陸する米軍機の騒音で集会は何度か中断されたが、逆に私たちの団結に拍車をかける結果となったようだ。
 五月に川崎市内に引っ越してきてから、それまで無縁だった「基地被害」という言葉がとても身近なものとなった。数年前に交通事故にあってからというもの、車やバイクの騒音に恐怖を感じて足がすくんで動けなくなることがある。
 ある日、突然ものすごい爆音が近づいてくるのに気がつき、外に出てみると、真上を二機の戦闘機が当然のように飛んでいった。あまりの騒音に、しばらくその場から動けなくなり、震えが止まらなかった。私の住んでいる場所は基地にそれほど近くないので、「まさか」という驚きがあった。基地の側に住んでいる人びとの生活がどれだけの苦痛を強いられるものなのか、初めて実感できた出来事だった。
 私はこの集会に心の底から怒りをもって参加した。デモ行進の途中、車の中から「がんばれよ」と声をかけてきたおじさんがいた。また、沿道の店員さんたちが店を抜け出してデモ行進のようすを見つめていた。大学時代、大阪でデモ行進に参加した時とは状況が違う。これが基地のために苦しんでいる人びとの反応なんだと思った。
 基地のフェンスに抗議の赤いリボンを結ぼうとした時のこと。基地内のドライブコースで青いスポーツカーを走らせていた米兵が、私たちに向かってなんと手を振ってきたのだ。私は一瞬固まった後、怒りを通り越して何と言ったらよいか分からなくなってしまった。まさに「良き隣人」といった感じで、笑顔さえ浮かべていた。彼らにとっては私たちのしていることなど、とるに足りないことなのだろうが、こっちは必死なんだ。
 滑走路のコンクリートを一枚一枚はぎ取ってやれたらどれだけいいだろう。そんなふうに考えながら、有刺鉄線に赤いリボンを二度と取れないようにきつく結びつけた。
 生活の中に不安と苦痛を強いられるうえ、基地がこの国にある以上、私たちは戦争協力していることになる、こんな不条理なことがあるだろうか。サミットではIT(情報技術)だなんだと騒いでいたけど、日々の暮らしに精いっぱいがんばっている私たちの意思はどこに反映されているのか、誰が聞いてくれるのか? 怒りがこみあげてくる。
 帰りの電車の中で、真っ赤に日焼けしたおばあちゃんに、「お姉さん、プラカードには何て書いたの?」とたずねられ、「もちろん、基地はいらない。安保粉砕です」と答えると、「お疲れさま。これからもがんばりましょうね」と笑顔で言ってくれた。 私たちは戦争を知らない世代だけれども、自分たちの暮らすこの国の将来を考えるうえで、これらの運動を引き継いでいくことは不可欠だと思う。今回得たさまざまな体験を生かし、青年の中でさらにこの運動を広げる活動を続け、川崎から沖縄と連帯した米軍基地撤去をめざす闘いを展開していきたいと思う。 


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