20000605


アジアに生きる若者たち

タイにすむ無頼派ビジネス渡世人(6)

海援隊(海外展開企業等を支援するネットワーク組織隊)
代表幹事 増田 辰弘


 「気持ちは今でも中学卒」
 「楽な環境に自分を置きたくない」
 「将来はストリートチルドレンたちを集めた無国籍の学校をつくりたい」
 本日の主人公である香取秋成さんからはこんな言葉がどんどん飛んで来る。さしずめ、無頼派アジアビジネス渡世人の感がある。
 彼は慶応大学を出て、大手の広告代理店を何不自由なく勤めるが、無謀にも三十歳のとき突然会社を辞め、タイのアユタヤに出かける。もちろん会社の同僚はなぜ? と誰もが首をかしげた。人生は一度きり、自分の夢を実現してこそ生きる価値があると語る。
 彼のこの行動には伏線があった。まず、母親の理解があったことである。母の弟がドイツで音楽遊学の末、有名なロックグループのボーカリストになっていた。そのため、冒険家に免疫ができていたことである。と同時に、高校時代より親への説得をはじめていた。とかく、「今の若者は」といわれるが、半分は親のせいである。いつの時代でも、子供は両親、とくに母親の希望する方向にそって成長していきがちだが、香取さんは言う。「生んでくれただけで両親に感謝いっぱい。もらった命を精いっぱい悔いなく使いきることが一番の親孝行でもある」と。
 それが証拠に大学時代は東南アジアなど数十カ国に遊学している。このときタイには延べ六カ月滞在している。ベトナム難民の日本語教師も体験している。ともかくじっとしてはおれない性格なのだ。
 さて、アユタヤに渡った香取さんだが、サラパッチャン単科大学の料理科に入学する。このとき広告代理業からレストラン業へと業種的にも大変身を行う。卒業後アユタヤにてフットボールバー兼日本食レストランの経営を行う。テレビでフットボールを見せながらのレストランの経営である。
 もちろん、日本人のレストラン経営として許可を取っての開業ではない。地元の協力者に話をつけておき、当局には無許可で行った。したがって信じられないくらい安いコストで起業化ができた。ここでも長年の放浪のノウハウが生きてきたのである。
 そして、このレストランは大当たりする。アユタヤ刑務所の囚人用の食事の納品を受注できたのだ。香取さんの無許可ではじめたレストランは今度は空前の忙しさとなった。なにしろ刑務所の朝食分は朝の二時に仕込む。二十四時間ほぼ休みのないレストランとなった。
 香取さんは、このレストランが軌道に乗った今年から、このレストラン経営はアユタヤの友人にまかせ首都バンコクに上京した。今度は少し視野を広げる意味で、流通センターや工場立ち上げの設備、システムの一式を請け負う日系のエンジニアリング会社ダダ・クリエイトに入社した。城代家老兼営業部長の役割を受けもった。
 田舎のタイを味わったら、次は都会のタイを味わおうというわけだ。香取さんのビジネスの放浪にはとめどがない。アユタヤのレストラン業はすっかり忘れたかのように、今度は立派な国際ビジネスマンの顔をしている。 


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