20000525


戦争、いじめ、少年犯罪…

他人の痛み分かる社会を

海野 ひろし


 先日、親類一同が久しぶりに顔を合わせる機会があった。いつものように、昔話に花が咲いたのだが、なにかの拍子に、話が昔の火葬のことになった。
 大正生まれの叔父たちが、子供の頃というから、もちろん戦前のことだ。その頃の埋葬は今のような火葬でなく、土葬が普通だった。ただ、病気で亡くなったときは、火葬にしたという。とはいっても今のような公営の火葬場があるわけでもなく、海岸にやぐらのようなものを組み立て、親族の者が付きっきりで火を燃やしたという。酒の勢いもあって冗舌になった叔父たちが語るこまかな描写に、戦後生まれの私といとこたちは引き込まれるように聞き入ってしまった。
 叔父の話が一息ついた時、それまで黙ってうなずいていた一番年上の叔母が「あれは怖かった、あれは忘れられない」と、つぶやくように言った。一瞬、その場の空気が止まったように、ハシやコップのざわめきが止まった。
 止まった空気の重さに押し出されるように、別の叔父が「戦地では…」と南太平洋での戦争の話を始めた。これまで、何度か聞いたことがある話だったが、今までとは違う気持ちで聞くことができた。たぶん、叔母の「怖かった」という言葉が、今までとは違う雰囲気をつくり出していたのかもしれない。
 平和の大切さは、それが奪われた時の、恐怖や悲しみをどれだけ感じることができるのかということだと思う。なぜ、人の命は大切なのか、なぜ人権を守らねばならないのか。それは、命が奪われることの悲しさ、命や暮らしが脅かされることの恐ろしさが、ほかのなにごとよりも、つらくて苦しいことだからである。
     *
 中学生、高校生による凶悪な犯罪が続いている。マスコミを通じて流れてくる事件を見ていると、どこの町の、どの生徒が事件を起こしても不思議ではない気分にすらなってくる。
 なんとかしなければ、このままでいいのだろうかという不安な気持ちの高まりに対し、対策と称して「少年法の改正」や「教育勅語の復活」という動きがある。刑罰を重くして、問題が解決するとも思えない。そんなに単純な話なら、とうの昔にこの世から犯罪は消滅している。「教育勅語の復活」も、「日本は神の国」であることを願っている連中が、騒いでいるだけのことである。
 いじめにしても、戦争にしても、加害者の根本にあるのは、他人の苦しみ、他人の痛みが分からない。分かろうともしないという、人間として一番大切な感情の欠落ではないのだろうか。
 ならば、どうしたら他人の痛みや苦しみを伝えることが出来るのか。それは、痛みを感じた人、苦しみを味わった人の言葉を繰り返し、繰り返し伝えていくことでしかない。
   *
 いくら、命の大切さを子供たちに教えても、生活のなかに根を張ったように入り込んでいるテレビ番組やゲームの世界では、いともたやすく人が殺され、すぐまたよみがえる。難しい時代だといえる。
 でも、だからこそ声を大にして平和の大切さを伝えていかなければならない。敗戦から五十五年、そのことをおこたっていたツケが、今の日本の異常な姿につながっているのだと思う。 


Copyright(C) The Workers' Press 1996-2000