20000515


戦争から平和の教訓

日越青年交流の発展を

グエン・ヴァン・ニエム氏(ホーチミン市外交事務所・報道情報課課長代理)


 来日したベトナム青年代表団のグェン・ヴァン・ニエム氏は、国際基督教大学で行われた交流会で次のような講演を行った(要旨)。


 今年の四月三十日、ベトナムは解放二十五周年記念日を迎えました。
 ベトナム戦争は、第二次大戦後、もっとも激しい戦争でした。米国は、もっとも豊かな国で、ベトナムは一番貧しい国です。しかしわが国は、独立と自由、主権のために闘いました。この戦争で、ベトナムは約三百万人が殺されました。
 一九四六年に、フランスに対する独立戦争が始まり、有名なディエンビエンフーの闘いで勝利しました。これでベトナム民主共和国(北ベトナム)が独立し、ソ連などの社会主義国に支持され、新しい体制になりました。しかし、南部は米国などに支援され、国土は南北に分割されました。
 五四年のジュネーブ協定によって、二年後に総選挙を行い、南北を統一することで合意されました。しかし、米国はベトナムをなんとしても支配しようと、戦争を仕掛けました。

民族の尊厳かけたベトナム戦争

 ベトナム戦争は、五段階に区分されます。
 第一段階は、五四年から六〇年です。この期間は、米国がゴ・ジン・ジェムかいらい政権を利用した時期です。ゴ政権が北ベトナムに戦争をしかけ、米国はこれを支援することで、勝利をめざしていました。
 第二段階は、六一年から六五年です。米国は武器支援と軍事指導を行いました。軍事顧問団を派遣し、戦争を指導しました。この段階で米国は、北ベトナムへの戦争は、早期に「解決」するだろうとみていました。しかし、この米国の目算ははずれました。
 六八年までが、第三段階です。米国は、直接ベトナムに介入しました。最大時、約百万人の米軍が派遣されました。これに、友軍としての韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンも加え、約二百万人に達しました。
 米軍は最新の技術をそなえた、大量破壊兵器を投入してきました。たとえば、B 爆撃機は、一機で五トンの爆弾を積むことができます。一回の攻撃で、広範囲な地域が破壊しつくされます。
 さらに、化学兵器をまく作戦も行われました。特に有名なのが、枯れ葉剤です。この枯れ葉剤によって、数百万ヘクタールの森林が破壊されました。北ベトナムに対する「北爆」を、米国は「ベトナムを石器時代に引き戻す」とまで豪語しました。しかし、この直接介入によっても、米軍は勝利できませんでした。
 第四段階は、七三年までです。介入によって、米兵の若者の多くが死にました。米国は軍事的に勝つことが不可能だと考えるようになり、和平会談に重点を移すようになりました。そして、パリ和平協定が結ばれました。この協定で米軍が撤退し、南ベトナムが戦争を継続しました。私たちは、パリ協定は、戦争を「ベトナム化」するものだと思っています。
 七三年には米軍が撤退しました。そして、南北の闘いがさらに二年間続きました。これが最後の第五段階です。しかしこの段階でも、米国からの経済・軍事援助は続けられました。ベトナム戦争は、七五年四月三十日に、北ベトナム側の勝利で終わりました。 戦争が終わってから二十五年たっても、米国には戦争のトラウマが残っています。このトラウマは、もっとも強い国が、もっとも貧しい国に敗北したというものです。
 七六年に南北が統一された後も、米国はベトナムを転覆させようと、さまざまな取り組みを続けていました。七五〜九二年、米国からの経済制裁が、ベトナムに加えられました。九二年に制裁が解除された後も、米国はスパイを送り込んだりしています。二国間の国交が正常化された後でも、米国とベトナムとの関係は微妙なものです。

アジアの平和に共に努力を

 ベトナムは現在、ドイモイ(刷新)という改革政策を行っています。
 ドイモイ政策で、ベトナムは外国へ門戸を開きました。
 国内総生産(GDP)上昇率は、九九年は四・七%でした。物価上昇率は、一%に抑えられています。二〇〇〇年は、五・五%の成長が予測されています。ベトナムは、自分たちが食べる食料にも困る状況から出発して、コメやその他の農産物を外国に輸出できる国になりました。
 現在、ベトナムは百五十六カ国と国交をもっています。さらに、ASEAN(東南アジア諸国連合)などの国際的政治機構に加わっています。世界貿易機関(WTO)にも加盟したいと思っています。しかし、米国は、さまざまな点でベトナムが国際組織に加盟することを妨害しており、WTO加盟も同様です。
 最近米国がもち出しているのが、人権問題です。米国は「人権の擁護者」として振る舞いたがっています。そして、小さな国を「人権」の名の下に脅しています。
 戦争についてふり返ったのは、米国に対する憎しみについて述べようと思ったからではありません。過去の経験から、教訓を学びとるためです。戦争が引き起こす結果は、非常に悲劇的で、深刻です。 
 私は、広島の原爆資料館を訪れたことがありますが、日本の皆さんも、戦争の悲惨さについては、ベトナム人と共有できると思います。いかにして、若い世代の人びとが平和を築き、連帯を広げるかが問題です。
 ベトナム戦争に反対する運動には、米国や日本の若者がたくさん加わりました。しかし、当時と違って、目に見える戦争はありません。私が考えるに、当時の若者が参加した反戦運動に代わるものは、国際交流に参加することだと思います。科学技術の発展によって、地球はどんどん狭くなり、お互いが身近になっています。しかし、顔を合わせる交流があってこそ互いを理解でき、これからの平和と協力、互恵的な発展の基礎ができると思います。
 日本とベトナムは共にアジアの国であり、儒教文化の影響を受けているなど共通点もあります。発展途上国と先進国の若者が出会い、交流することは、互いに学ぶものがあるでしょう。国際理解を進める努力は、自分をよりよく知ることにもなると思います。


ベトナムの歴史

前2000年頃 フングエン文化が紅河デルタに栄える
前400年頃 ドンソン文化(青銅器文化)が繁栄
前200年頃 中国・秦によりベトナム北部が征服され、南越国が建国される 
前111年 漢の武帝が「南越」を征服・併合。北部と中部が中国の領土になる
 939年 中国の支配から独立への動きが始まる(呉王朝を建国) 
1010年 リ(李)朝が成立、後に国名を「ダイベット(大越)」とする 
1225年 チャン(陳)朝が成立 
1400年 ホー(胡)朝が成立 
  07年 中国・明に征服され、直接支配下に置かれる 
  28年 レ(黎)朝の成立によりベトナム統一的支配が回復 
1786年 タイソン朝の成立 
1802年 仏の支援を受け、フエを首都にグエン(阮)朝が成立
  04年 国名を「ベトナム(越南)」とする 
  58年 第一次仏越戦争勃発 
  62年 仏により、南部がコーチシナ直轄植民地となる 
  82年 第二次仏越戦争勃発、仏がハノイを占領 
  84年 全土が仏保護国となる 
1940年 日本軍がインドシナへ侵攻 
  45年 ホーチミンがハノイでベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立宣言 
  46年 インドシナ戦争勃発 
  49年 仏がサイゴンに「ベトナム国」(南ベトナム)を建国 
  50年 仏、米に軍事援助を要請
  54年 ディエンビエンフーの闘いで仏軍を破る。
      ジュネーブ協定で2年後の総選挙で合意。南部にゴ政権成立
  56年 仏軍が南ベトナムから撤退 
  59年 ホーチミン・ルートの開設を指令
  60年 南ベトナム解放民族戦線結成 
  61年 米国家安全保障会議、ベトナム介入強化を決定
  63年 南ベトナム全土に戒厳令、仏教徒などに大弾圧
  64年 トンキン湾事件
  65年 米海兵隊がダナン上陸、直接介入始まる。北爆開始
  67年 米軍機、非武装地帯に「枯れ葉剤」散布開始。
      米ワシントンで10万人の反戦集会。派兵米軍が47万人を超える
  68年 米大使館占拠など、テト(旧正月)攻勢に大勝利。
      米軍、ソンミ村で村民500人を虐殺。ベトナム和平パリ会談始まる
  69年 南ベトナム臨時革命政府樹立
  70年 米軍、カンボジア、ラオスに本格介入
  73年 ベトナム和平協定調印、米軍がベトナムより撤退 
  75年 南ベトナム解放
  76年 南北統一、ベトナム社会主義共和国成立 
  79年 中越戦争 
  86年 ドイモイ(刷新)政策開始 
  90年 EU(欧州連合)と外交関係を樹立 
  92年 新憲法発布
  95年 ASEANに正式加盟、米国と30年ぶりに外交関係樹立

 


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