20000315


三池闘争で殉難
久保清さんの碑を訪ねて

はたらく者のその未来のために正しく生きたといわれよう

福岡・青木 啓三


 二月二十四日付の地元紙に「三池閉山―最後の会社面談会―炭鉱離職者八十八人が参加 来月の黒手帳失効前に 大牟田市」との見出しの記事が載った。
 三年前に閉山した三井三池鉱の炭鉱離職者の再就職に向けた第七回合同会社面談会(福岡、熊本両県など主催)が開かれたこと、炭鉱離職者求職手帳(黒手帳)が三月末に失効するため、炭鉱離職者を対象にした面談会は今回が最後で、福岡県のまとめでは、閉山から今年一月末までで、千四百二十一人の炭鉱離職者が求職活動を行い、このうち八百四十七人(五九・六%)の再就職が決まったことなどが報道されていました。残る四割の人は再就職が決まらぬまま黒手帳が失効するのです。
 私は、先日所用で、二十歳になった娘と熊本県荒尾市に出かけました。今年一月に出版された藤沢孝雄さんの『三池闘争と私』を読んで、労働者の闘いの歴史を今の若い人にも分かってもらえるようにと思っていましたので、用事を済ませたあと、思い立って四山(よつやま)にある久保清さんの殉難の碑をたずねてみました。
 久保さんが刺殺された三池・四山坑は、大牟田市に隣接する荒尾市にありました。県境といっても荒尾市四山町は大牟田市の三川町などと通りをはさんでいるだけで、かつて炭鉱で働き、生活する人びとの日常生活を支える商店街として大変にぎわったところです。
 四山の小さな山の上には四山神社と公園があり、「こくんぞさん」という祭りでにぎわうところです。町から見れば山の裏手、有明海を望む山腹に四山坑の正門があります。昇降用の大きなやぐらは九七年の閉山後に取り壊され、わずかに煉瓦(れんが)塀や柵(さく)が残っているだけです。山の裏手の道は、いまはほとんど人通りもなく、時折トラックなどが通るだけです。
 そんなひっそりとした坂道をあがっていくと、板でふさがれた四山坑正門の跡があり、ほんの少し離れたやや平らになったところに久保清さん「殉難の碑」が、その右手には五三年の「英雄なき百十三日の闘い」の記念碑が建っています。
 今でも時折訪れる人がいるのでしょう。雑草が生い茂る周辺の風景のなかでそこだけポツンときれいになっています。花も添えられています。そこから有明海を望むと、かつての四山社宅、大島社宅はすでにあとかたもなく、貯炭場や貯木場の一部は物流センターになって寒々とした光景をさらしています。
 炭鉱の閉山で、大牟田市内や荒尾市内に残っていた炭住街もほとんど取り壊されて、大型ショッピングセンターや新しい住宅地としてすっかり姿を変え、かつての炭鉱の面影はどんどんなくなっています。 
 だけど、確かにこの場所で、「総資本対総労働」といわれた三池闘争が闘われたしるしが残っているのです。藤沢孝雄さんの『三池闘争と私』では「まさにそんな緊迫していた時でした。三月二十九日、会社のさしむけた暴力団が四山坑の正門で労働歌を歌うピケ隊に、ピストルやアイクチ、日本刀をもって襲いかかかってきました。そして久保清さんという当時三十二歳の第一組合員の心臓をアイクチで刺し、殺したのです。悲しみの中から憎しみがわきおこってきました」と書かれています。
 当時会社側が、分裂させた第二組合を使って生産を強行するなど一挙に勝負をかけようとし、炭労も展望を切り開けないまま中労委への斡旋(あっせん)申請という動きのなかで、組合員のなかに「この先どうなるんだろうか」という不安がうまれてきていた、まさにそんな時にこの刺殺事件が引き起こされたこと。そして、これが全国の世論を呼び起こし、決意をあらたにした組合員たちが再び団結をかため直し、力強く前進するようになったと書かれています。
 一年後の六一年三月にたてられたその碑の隣に、久保清さんを追悼する詩が刻まれています。

 同志 久保清に捧ぐ

 やがてくる日に
 歴史が正しく書かれるやがてくる日に
 私たちは正しい道を進んだといわれよう
 私たちは正しく生きたといわれよう

 私たちの肩は労働でよじれ
 指は貧乏で節くれだっていたが
 そのまなざしは
まっすぐで美しかったといわれよう
 まっすぐに
 美しい未来をゆるぎなく
みつめていたといわれよう
 はたらく者のその未来のために
 正しく生きたといわれよう
 日本のはたらく者が怒りにもえ
 たくさんの血が
 三池に流されたといわれよう

 今からちょうど四十年前のまさにその現場にたって、二十歳になったばかりの娘は、自分の年の倍以上も前の出来事を、はじめて知ったようです。これから社会に出て、仕事もまともにない、このきびしい階級社会の現実を肌身で感じながら、苦闘しながら生きていくのでしょうが。
 「ピケ」とか「ロックアウト」とかいう言葉さえも知らない若い世代が、自分の身近なところでの労働者の闘いの歴史と、これからも闘わなければ生きていけない社会であること、それに立ち向かっていくことを分かってもらえたら、と思い、その場所を後にしました。 


Copyright(C) The Workers' Press 1996-2000