20000205


アジアに生きる若者たち
台湾の半導体で生きる純生アジア人(2)

海援隊(海外展開企業等を支援するネットワーク組織隊)
代表幹事 増田 辰弘


ハルピン生まれの日本育ち
 
 世の中には不思議な人生がある。それは運命のいたずらでどうしようもないほど奇遇である。そんな人生をゆったりと、自分のペースに組み立て直して進んでいる一人の若者がいる。台湾の半導体メーカーに勤める原俊彦さんだ。
 彼は、中国ハルピンの生まれで、十六歳まで中国で育っている。医者である中国人の父親と薬剤師である日本人の母親の間にできた彼は、少年時代を中国で過ごした。
 やがて、高校入学時に日本に帰り、高校、大学は日本で過ごし、日本の大手制御器メーカーに入社した。入社三年目、得意の中国語を生かすチャンスがめぐって来た。セールスのトレーニングで台湾へやってきたのだ。
 彼は、ここで半導体ビジネスのおもしろさに目ざめる。新しい産業のコメとして、めまぐるしく動く半導体の魅力にくぎづけとなった。しかし、彼の台湾でのトレーニングは一年で終え、日本に帰らねばならない。どうするか彼はかなり悩んだ。
 というのも、その時彼はインターネットで、A社の求人に応募し、よい感触を得ていたからだ。ここで、彼はまさに清水の舞台から飛び降りるつもりで日本の大手制御器メーカーを辞める。そして、ここしばらくは台湾で過ごす決心をする。

週末は台北で交流活動
 
 これには、会社の友人もびっくりした。なにしろ、給料は三〇%も減る。崩れだしたとはいえ、一応終身雇用の日本企業に比べてこのローカル企業は明日の行方すらわからない。多くの友人の考え直せとの忠告にも耳を傾けず辞めた。半導体ビジネスへの思いがそれだけ強かったからである。
 彼の決意は固く、蹶然(けつぜん)と日本の大手制御器メーカーを辞め、台湾ローカル企業に移った。しかし、日本企業から台湾ローカル企業に移ることでこれだけ環境が変わるとは思わなかった。まず、入社して数カ月後、移った会社そのものを、当のA社が自社の持ち株売却の形で台湾半導体メーカーに経営権を売り渡したのだ。かくて同社は、DRAM製造メーカーよりファウンドリー(受託生産)メカーへに変わった。
 また、日本の大手制御器メーカーとは、社内の空気も激変した。どちらかといえば相互に遠慮をしあう密室的な日本企業に比べ、すべてがオープンでノルマさえ果たせば、後は何をしてもかまわない環境は原さんにとっては新鮮で、願ってもない状況である。これで独自に世界から半導体の情報を集めて研究を重ねることができる。
 週末には、新竹から電車で台北の友人の所に居を移し、情報交換を行う。未来を見据えて、ネットワークづくりも彼の重要な仕事の一つである。このボーダレス化時代は人的資源が何よりの財産となるからだ。
 「しばらくは、台湾に居て半導体の仕事をします。将来のこと、あまり大口はたたけませんが、日本人と中国人の混じった血という宿命を生かした仕事をしていきたいと思います」と語る。まさに二十一世紀型の夢大きな若者なのである。 


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