20000205


青年 若者が見たベトナム
国を守り抜く気概に感動

料理もうまく、文化も面白い

大原 智也


 先日、ベトナムへ友人たちと行ってきた。ベトナムはドラマや紀行などテレビなどでも見かけることも多く、アイドルの写真集もベトナムで撮影されている昨今。
 しかし、東京とハノイという首都同士での空路がまだ開設されておらず、東京―関西空港―ホーチミン(旧サイゴン)―ハノイというルートで、一日がかりでハノイまでたどり着いた。十六世紀には「日本人町」がつくられるくらい、昔からつきあいのある国なのに、まだまだ「遠い」んだなということを実感した。

◆ベトナム文化に触れて
 ハノイ市にしても、ホーチミン市にしても、街中がバイクと自転車であふれかえっている。ヘルメットなんて誰もかぶらない。二人乗りは当たり前、中には三人乗りや、親子交互に家族四人乗りなんてのも見かける。そして、少しでもすき間があろうものなら、すぐに入り込んでくる。恐ろしいことに、道を逆行してくる二輪車も見かけた。
 自動車が少数派で、二輪車の間を縫うように走らなければいけない。二輪車が最優先なのだ。信号のないロータリー状になっている交差点を眺めていると、不思議な気分になってくる。それぞれがまちまちに動いていながら、譲らず、ぶつからず、全体としてうまく流れているのだ。
 ベトナムといえば、料理のうまいことで有名である。旅行ガイドの定番『地球の歩き方 ベトナム編』では、八十四種類もの料理が八ページにわたって紹介されている。ヌクマムという魚醤(ぎょしょう)をベースにした料理は、とにかく食欲をそそる。生春巻き、フォー(うどん)、エビや鶏肉のピーナツあえサラダ、変わったところではカエルの唐辛子いため、焼き犬肉(!)など、グルメな人にはたまらない。
 また食文化だけでなく、農村でうまれたコミカルな水上人形劇、彩り鮮やかないろいろな神様、仏様のいる寺院など、ベトナムの文化は日本と似ている面もあり、違う面もありで、大変おもしろい。

◆ベトナム戦争跡を参観
 さて、今回の旅は、文化を満喫しただけでなく、豊かな文化をもつベトナムの人びとに強いられた、フランス、日本、米国といった外国勢力との戦いの跡に触れる旅でもあった。
 ハノイ市でも、ホーチミン市でも、独立革命、抗米救国戦争(ベトナム戦争のことをこう呼ぶ)に関係した博物館はたくさんあった。自分たちの民族の苦難と勝利の歴史を忘れまいとする思いがこめられているのだ。いくつか参観してみた。また南の解放勢力の拠点だったクチの地下基地の跡にももぐってみた。狭くて暗くて、換気のよくないトンネル基地。ここに潜んで、彼らは闘い抜いた。当時の映像もそこで見たが、圧倒的な軍事力を持つ米国を敵にしていながら、そこに映し出される兵士たちは、にこやかで輝いていた。自分たちの暮らしを自分たちで守りぬく、その気概に満ちあふれていた。そういう彼らが勝った。あの米国に勝った。自分たちの国を、自分たちの暮らしを、自分たちの手(文字通り、素手で!)で守り抜いたのだ!
 こうしたベトナム人の「誇り」に触れると同時に、米国の残虐な爆撃などにより、三百万人もの人びとが殺されたという重い事実もつきつけられた。一晩で五百人の村人が無差別に虐殺されたという「ソンミ村の虐殺」の展示が博物館にあったが、住民の遺体の写真や遺留品を前にして、怒りというか悲しみというか、なんとも言えぬ感覚が体の中を走った。
 一九七五年に「南」が解放され、統一ベトナムが誕生したことは、まだ自分が生まれて間もない頃のことで、記憶にはない。しかし、ベトナムに来てみて、ホーチミン主席が語ったという「独立と自由ほど尊いものはない」という言葉の重みが少しわかった気がする。
  ◇  ◇
 当時、米国、日本をはじめ世界中でベトナム反戦運動が青年を中心に盛り上がっていたという。帰国してから、沖縄で米軍基地撤去運動を先頭で闘っている人にベトナムに行ったことを話すと、「米軍がベトナムへ軍事物資を輸送するのを、体を張って阻止したよ」と誇らしげに語ってくれた。
 今回いっしょに行った友人は「ベトナム戦争、国際反戦運動…二十年早く生まれていたら私は何をしていただろうか」と自問していた。ベトナム、アジア、沖縄、日本、そして米国。この関係の中で、日本の占める位置は二十数年前と変わっただろうか。二〇〇〇年を迎えた今こそ、この日本で、自分が何をしているのかが、問われている時代だと私は思う。
 


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