20000101


アジアに生きる若者たち

ホーチミン・大次郎物語(1)

海援隊(海外展開企業等を支援するネットワーク組織隊) 増田 辰弘


 アジアに出かけると何度かほのぼのとしたことに出会う。日本からベトナムに進出している水産加工会社の社長さんのところに、商売先の経営者からたっての依頼があった。それは、高校を中退しブラブラしているダメ息子を預かってほしいという依頼である。条件は何もなし。息子には何をしてもよい。ただし殺すのだけはやめてほしい、という。
 頼まれたら嫌と言えないその社長さんがOKを出したら、早速その経営者と茶髪の息子がホーチミン市にやって来た。会ったらいっしょに食事をし、息子が寝たすきにパスポートといくらかの現金を社長に預け、その夜のうちに父親は息子の前から姿を消した。
 目が覚めてびっくりしたのは、茶髪の息子、大次郎君。事の異変に気づき、泣き、わめくが、その社長さんはガンとして動じない。そして数日後、ホーチミンから遠く離れたニャチャン市の水産加工工場に連れて行かれる。
 そこは大きな水産加工工場で、工場長は日本人だが、あとの六百人の社員はすべてベトナム人である。当たり前の話だが、本社からの出向社員でも、技術をもっているわけでもない。ただ日本人であるというだけの大次郎君に、誰も遠慮などしてこない。掃除、水産加工の作業、あいさつ、ともかくこれらをきちんとやらねば皆といっしょに生活させてもらえない。何しろ、お金は一円も持っていないからやむを得ない。
 ここから、大次郎君のまさに汗まみれ、泥まみれの生活がはじまる。ベトナムは、まだ高度成長前期、日本でいうならば昭和三十年代初頭であるから、人間が生々しくストレートだ。仕事のミスやもたつきにはストレートに叱責(しっせき)がくる。泣き、笑い、怒り、喜ぶ大次郎君とベトナム人の、昨日の日本では考えられない生身と生身の人間がぶつかりあう原始的生活がはじまった。
 案ずるより生むが易(やす)し。この二年間で大次郎君のありさまは一変した。すばらしい青年に生まれ変わった。当初は、日本語もろくにできなかったが、今ではベトナム語も英語もできるようになった。それはそうだ。ベトナム語が話せなければニャチャンでは生活できないから、うまくならざるを得ない。
 別の場所で、日本の高校生数人がアルバイトをしたお金でベトナムに来て、同国の芸術文化の調査を実に熱心に行っていた。こちらの青年が早熟型であるなら、大次郎君はスロースターター型である。スロースターターは能力がないわけではない。エンジンのかかりが少し遅いだけなのである。動き出すと馬力はあるし、人間的な厚みもある。大次郎君は今や、日本人出向社員の中では一番、ベトナム人社員の信頼が厚くなった。
 よい高校を、よい大学を、よい会社をと先回り育児をし、それゆえに多くの若者の自主性とやる気を失わせた日本社会にあっては、むしろ茶髪ぐらいで反発している若者の方が正常なのかもしれない。ホーチミン市で生き生きと働く大次郎君を見るにつけ、教育とは何なのか、人生とは何なのかをつくづく考えさせられた。 


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