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労働新聞 2018年3月25日号 8面

戦争体制構築に利用される差別

 多文化共生社会づくりで対抗を

「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき
市民ネットワーク」三浦和人

 安倍政権による朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の「脅威」を口実とする戦争体制づくりが進む中、それに呼応するようにヘイトスピーチなど民族差別をあおる言動も続いている。こうした動きに対抗し、川崎市では住民らがネットワークを結成、実効性のある人種差別撤廃条例の制定を求める意見書を全国に先駆けて提案した。運動のめざすものなどについて、「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」事務局長の三浦和人さんに聞いた。(文責編集部)


 私たちは三月一日、ヘイトスピーチを含めた人種差別を禁止する条例を制定するよう求める意見書を川崎市に提出した。この条例制定を求める動きの大きな契機となったのが二〇一五年の川崎区桜本でのヘイトデモ阻止の取り組みだ。

地域の中の差別との闘い
 桜本には、戦前から日本鋼管などの工場立地ための土木作業に従事した朝鮮人労働者が集中して居住してきた。また、沖縄の人や東北の農家の次男三男、戦後は炭鉱閉鎖で失職した人たちなど、地域社会で弾き飛ばされた人たちが集まってきた地域でもある。
 一九七〇年代、ここに住む在日二世を中心に地域の暮らしの中にある差別との闘いが始まった。
 戦前戦中に日本の植民地・戦争政策によって渡日してきたかれらは、戦後はGHQ(連合国総司令部)と日本政府によって「同化か、追放か」を迫られ、居住や教育、医療など生活に関するさまざまな権利を奪われた。だが在日一世は、その日食うために働き詰めだったり、また「自分たちは独立朝鮮の国民」という意識もあり、日本社会に暮らすことを課題に運動にすることはほとんどなかった。
 しかし、在日二世の世代が社会に出て働き始め家庭を持つ時期となり、「自分たちのような惨めな経験をしてほしくない。子どもたちには在日として堂々と胸を張って本名で生きてほしい」と思いを抱いていた。
 日立就職差別裁判はその先駆けとなった。在日の青年が日立製作所戸塚工場への就職内定取り消し撤回を訴えた。事件自体はローカルだったが、支援運動は全国に広がった。直接的な日立への抗議行動や韓国での日立製品不買運動など国境も越えて支援が広がり、裁判闘争は七四年に勝利した。これは時代を象徴するような新しい運動となり、在日を治安の対象と見なす不当な外国人登録法に反対する八〇年代の指紋押捺拒否運動にもつながった。
 こうした当時の在日の若い世代の闘いに、日本人も一定連携し参加した。私もその一人で、学生運動の流れから縁あってこの桜本でいっしょに活動するようになった。当時「日立から地域へ」と言ったりしたが、在日の暮らす地域を差別のない社会にするため、さまざまな課題に取り組んだ。
 在日大韓基督川崎教会が朝鮮の雅名である「青丘」を冠した社会福祉法人・青丘社をつくり、保育園の運営を中心に民族名を呼び名のる運動が始められ、私もそこに参加した。就職差別裁判を闘ったが、そもそもその前に就職や進学をあきらめ絶望の中にいる子どもたちが多く、学習塾も開いた。児童手当を受け取れない、公営住宅に入れない、住宅ローンを組めない…こうした不当な差別に対し個別に交渉し、皆の力で一つひとつ国籍条項を撤回させた。指紋押捺に対しても全国に先駆けて地域をあげて拒否運動を闘った。学校教育の中に差別をなくす教育を取り入れるよう訴え、在日に関する授業も行われるようになった。
 こうした取り組みの一つの結実が八八年の「川崎市ふれあい館」の開設だ。児童館と社会教育施設を合わせた生活と教育のための施設だ。かつては「在日は市民なのか」という問いに市当局は答えることさえためらっていたが、地域活動の結果、在日を住民として認め、「ふれあい=共生」を行政の責任と位置付けるようになった。それを保証する公的な活動の場ができたことは大きな一歩だった。
 九〇年代になると、一世のハルモニ(おばあさん)たちがふれあい館に集うようになった。年齢から仕事を辞めたものの、これまで働き詰めで自分の時間など持ったこともなく、どうしたらいいか分からない。学校教育を受けていない人も多かったので、識字学級を始めた。字を知らなくても生きてきた彼女らの力強さに感銘を受けるとともに、鉛筆を握って書くことも訓練で身に着けることをあらためて思い知らされた。会食会なども開き、在日の高齢者が集う機会をつくった。年金制度から除外されている在日高齢者の福祉への対応も行政に求め、行うようになった。

ヘイトデモ阻止から連携
 二〇一五年、国会では集団的自衛権の行使を可能とする安全保障法案、いわゆる戦争法案が審議されていた。国会前では戦争法反対のデモや集会が連日のように行われていた。
 こうしたことを聞いたハルモニたちが立ち上がった。彼女らの中には、アジア太平洋戦争を経験したり、また朝鮮戦争から逃れてここに来た人もいる。「戦争だけはダメ」という思いは強く、「子や孫のために戦争法に反対したい、国会前に連れて行って」と私に頼むハルモニもいたが、結局「体がもたない、桜本でやろう」ということになった。デモ申請し、勉強会を行い、チラシや横断幕について話し合い、九月五日に二百人で近くの大通りを三百メートルほどデモ行進した。
 ハルモニたちがチマチョゴリを着て地域でデモ行進する。これは本当にすごいことだ。地域には今までの暮らしの中で差別してきた側の人間も暮らしている。だからこれまでハルモニたち一世がチマチョゴリを着るのは冠婚葬祭など限られた身内の中だけだった。それが、ふれあい館に集うようになり、また日本の学校で孫たちが朝鮮民族の伝統芸能を踊ったりするのを見るなどして、桜本の地域の一員だと思ってくれるようになったのだろう。私としては四十年の地域活動の集大成とも思える感慨深いデモで、涙が出るほどうれしかった。
 このデモに対し、一三年頃から川崎駅や市役所前などでヘイトスピーチを行っていた連中が「反日汚鮮の酷い川崎で日本浄化デモを」などと攻撃、ハルモニが通った同じ道でのデモ行進をネット上で告知した。それまでにも十回以上、駅前や市役所前でヘイト宣伝を行ってきた連中が、直接的に居住地域に乗り込むと布告してきた。
 これを知り「私たちが戦争反対の声を上げたのが良くなかったのか」と思うハルモニもいた。だから私たちは「冗談じゃない、あんな奴らはけしからん、絶対に奴らを桜本に入れるな」と各方面に反撃を呼びかけた。在日が声を上げれば「死ね、殺せ」と意趣返しに出る。こんなことを許してしまえば多文化共生も何もない。地域社会としてこれを許さぬ姿勢を、ハルモニたちにも、地域にも、見せなければならないと思った。
 十一月八日、青丘社職員を含む地域住民や川崎市内外から駆け付けた反ヘイトスピーチ運動メンバーら三百人を超える人間が結集しヘイトデモを阻止した。なお雨天もありデモ参加者はわずか十四人だった。
 この後、私たちは桜本から枠を広げ、他団体や地方議員、弁護士などと共に川崎市全体のネットワークをつくり、署名活動や集会などを行い、人種差別反対を許さない行政システムを求め条例化をめざした。ネット上の中傷を被害者自身が告発するのは大変な労力と犠牲が要る。刑事罰を限定的に課して取り締まり、また行政がネット上を巡回して告発するなど、実効性ある中身を求めている。

戦後の米従属下で差別温存
 現在「朝鮮の脅威」が戦争体制づくりに利用されている。全国瞬時警報システム(Jアラート)や住民避難訓練で隣国への恐怖心があおられ、一方で国や行政による朝鮮学校に対する無茶苦茶な対応が放置されている。これを許しているマスコミの倫理観のなさは腹立たしく、何より歴史観の欠如を痛感する。
 ヘイトスピーチにつながる民族差別意識は、戦後の米国の戦争を支える体制づくりの中で温存されてきたものだ。差別意識の源流は戦前の植民地時代に端を発しているが、戦後も意識的に維持されてきた。朝鮮戦争を前に始まった「逆コース」の中、戦前からの日本の高級官僚や軍人たちは復権した。また在日はこぞって米国の傀儡(かいらい)である南朝鮮の単独選挙を国家分断につながると反対し、GHQに徹底して弾圧された。在日を「第三国人」と定めた敵視政策を始めたのはGHQと日本政府だ。
 そして現在でも、米国とそれを支える日本政府の戦争政策に異議を唱えれば、「非国民」「第三国人」と言われ、上からは弾圧され、下からは攻撃、脅迫、侮辱される。桜本のヘイトデモは阻止したが、日本全体で差別や敵視が強まる中、地域社会だけが無風でいられることはあり得ない。差別意識が今後さらに戦争政策に利用されることを大変憂慮している。
 この大きな動きにどう対抗するのか、明確な答えを見い出せていないが、多文化共生社会をつくる取り組みがより重要となることには疑いがない。全国に広げられるような試みを今後も川崎で行っていきたい。

みうら・ともひと
 「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」事務局長、社会福祉法人・青丘社事務局長、川崎市ふれあい館元館長。

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