20011125

危険な米軍支援・海外派兵

「米国流」脱し、自主的な進路を

中部大学教授・武者小路公秀氏に聞く


 小泉政権がインド洋に自衛隊を派遣、事実上の集団的自衛権の行使に踏み切るなど、戦後史を画する攻撃が相ついでいる。米国の「反テロ」を口実としたアフガニスタン攻撃は、国際政治・経済上の主導性を確保しようとする米国の策略であり、これに協力することは、わが国の進路を誤らせる暴挙にほかならない。日本はアジアで孤立する道をまたもや選択したことになり、当然にも、アジア諸国からは批判や懸念の声があがっている。わが国の進路を、日米安保条約など日米基軸からアジア・中東諸国との共生の方向に転換することは、ますます切実に求められている。わが国のとるべき進路などについて、武者小路公秀・中部大学教授に聞いた。

米国の踏み絵に追随した日本

 米国がアフガンに対して行っている「反テロ戦争」は、実際は「反テロ」を掲げた、国家によるテロリスト戦争だ。つまり、民間のテロリズムに国家のテロリズムで対抗するもので、それに加担することは、日本国憲法があろうがなかろうがやるべきではない。
 米ブッシュ政権は、巧妙にも、同時自爆テロを「文明に対する攻撃」と定義することで、全世界に対して、「文明の側に立つか、非文明のテロリストの側に立つか」という二者択一の踏み絵を迫った。
 米国が行っていることの実態は、マスコミでよくいわれる西洋とイスラムの「文明の衝突」ですらない。それは、「文明は自分の側にしかない」「ほかにあるのは野蛮だけ」と、非常に思い上がった価値観だ。
 こうして米国は、テロ事件を使って、「反テロ」の国家連合のようなものをつくり、世界政治の主導権を確保しようとしている。残念ながら、多数の西欧諸国や、いくつかの途上国がこれに加わっている。
 さらに言えば、米国は軍事力を活用しながら、IT(情報技術)バブル崩壊後の自国経済を救うために、金融資本のための新自由主義経済(グローバリズム)を世界中に押しつけようと、この事件を利用しているのだ。
 一方、小泉政権は、日本が「文明国」であるということを何とか米国に信じ込んでもらおうと、海上自衛隊を派遣した。アフガンで何ができるかはどうでもよく、派遣計画の決定も待たずに、何はともあれ、米国に対してジェスチャーを見せたいというのがあると思う。
 また、日本もこの機会を利用することで、国際的に軍事的政治的実績づくりを行おうという狙いもある。この側面も指摘しておく必要がある。
 小泉政権が米軍支援のため、海上自衛隊をインド洋へ派遣したことは、あまりにも当然のことではあるが、日本国憲法に反する。

戦争と一体の「復興会議」

 日米が進めるアフガン復興会議だが、戦争と復興はつながっており、アフガンを攻撃したことと復興は、同じ米国の計画の中でやられている。いわば、一体のものだ。マスコミが書いているような、「タリバン政権が崩壊したから、『平和』なアフガンを復興しよう」、というのではまったくない。復興会議は、アフガン民衆を無視し、その犠牲の上に成り立つものにすぎない。
 この「復興」には、早くもいろいろな背景が取りざたされている。
 かねてから列強の間には、アフガン北部に石油と天然ガスのパイプラインを敷設する計画があったという。今回の報復戦争の背景には、そうした天然資源をめぐる争いがあるとされている。
 ブッシュ政権の背後に石油資本があるのは有名な話だが、日本も米国のしり馬に乗って、利権にどう食い込めるかと、虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのだろう。

グローバリズムに反対を

 日本にとっては、こうした利権争いに加わるのではなく、本当の意味でのアフガンの復興や、国民の安全を考えることが求められている。
 本来、国連がその役割を果たせればよいが、米国のいいなりの面がある。日本は、それを改めさせる努力をすべきだろう。
 また、全世界で、米国中心のグローバリズムに抵抗し、民衆の安全を守ろうという運動が強まっている。九九年の世界貿易機関(WTO)シアトル会議の際にも闘われたが、世界銀行や国際通貨基金(IMF)の会議の際に行われているこうした運動は、イスラム圏の「反グローバリズム「の運動ともつながって、国際的な連合をつくるべきではないだろうか。
 日本もそうした意味から、米国流の「グローバル・スタンダード」「グローバリズム」に振り回されず、それと違う経済のあり方を探っていくことが求められている。ある意味で、社会主義的な、つまり労働者・勤労国民が生産手段を掌握できるような方向を、西欧や途上国とともに模索していく必要があるのではないか。
 米国一辺倒で軍事的色彩を強めたり、経済面でも市場主義を進めることは、すべきではない。そうではなく、アジアや中東諸国などと共生できる経済・政治のあり方を追求し、「反覇権」の国際的な戦線をつくることこそ、二十一世紀に日本がめざすべき方向ではないかと考える。

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