20010905

サンフランシスコ条約・安保50年
日米同盟50年を清算しアジアとの共生の道を

安保破棄、米軍基地撤去


 日米同盟は五十年を迎えるが、九六年の安保再定義、新ガイドラインとそれに伴う周辺事態法制定など、次々と米国の戦略にわが国は組み込まれてきた。さらに最近では、日米同盟を米英同盟並みに転換し、集団的自衛権の行使とそのための憲法改悪さえ要求している。小泉政権はいっそうの対米追随を強めている。他方で、アジアに対しては、教科書問題や靖国神社参拝などで明らかなように敵対関係を強めている。わが国が真に平和と繁栄の道を進むには、アジアと敵対する米国の東アジア戦略から脱却し、アジアとの共生の道を探ることである。日米安保条約を破棄し、すべての米軍基地を撤去し、わが国の戦争責任を明確にして、アジアとの共生の道を切り開くことが求められている。九月八日、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約五十年の節目を迎える今こそ、対米追随からの脱却・アジアとの共生を求める国民的運動をつくりだそう。中江要介元駐中国大使に、サンフランシスコ条約・安保体制下の日本外交の五十年を振り返ってもらった。

中江要介元駐中国大使に聞く

自主外交を怠った50年

 サンフランシスコ講和条約締結・日米安保体制五十年を迎えたが、講和条約は風化しつつあるようだ。
 一般に講和条約は戦争の後始末のためのものであり、次の三点がポイントだろう。
 第一に、戦争責任をどうするかである。サンフランシスコ講和条約では、東京裁判を受諾させられた。裁判の公平さなどに問題があるとしても、誰に戦争責任があるのかを明確にさせるものであった。
 靖国神社参拝や教科書問題に表れた危険な動きは、こうした戦争責任の問題をあいまいにしており、一部には再び戦争をも辞さずとする動きが憂慮される。
 第二は賠償問題である。これまでの戦争は、ばく大な賠償が要求されたが、今回は請求権問題としてケリをつけた。
 だが、一番賠償を請求する権利があるはずの中国は講和条約には参加していない。さらに中国は日中共同声明、日中平和友好条約で賠償請求を放棄した。そのことをわが国はどう受け止めるのかが問われている。
 小泉首相をはじめとする多くの政治家は、靖国参拝に当たり、そのことをまったく配慮していない。
 第三は領土問題だ。つまり朝鮮半島、台湾などの処理だった。朝鮮については、「独立を承認」する。台湾については「すべての権利、権原、請求権権限を放棄」した。だから、北朝鮮との関係正常化にもっと努力すべきであり、また、台湾については、いっさいの口出しをしてはならない。
 ところが、日中共同声明、日中平和友好条約を無視して、台湾独立論や中国に対する内政干渉まがいの動きがある。
 以上のように五十年たって、講和条約の精神は風化したのではないか。それは、日米同盟体制に組み込まれた日本では米国の言うとおりにやっていればよい、という風潮が支配したからではなかったか。だから、わが国は自主的な国の生き方を考える努力を怠った五十年であった。
 日本は米国に経済、政治、軍事を依存し、経済的には発展した。しかし、わが国は日米同盟で自主的な外交を怠った。田中外相は「日米同盟はイージーだった」と言ったが、その通りだろう。
 日本はそのことを認識し、あるべき姿はそうではないということを自覚し、自主・独立の国づくりに努力すべきであった。このことを認識できる一番のチャンスは村山談話が出た戦後五十年の節目だった。だが、国をあげて過去の戦争の時代について反省することはできなかった。米国に守られ国をあげていい気になっていた五十年だったように思われる。

戦争責任を明確にしアジア外交確立を

 靖国や教科書問題は、わが国が朝野をあげて外交について無知であり、対アジア外交の不在を示してしまった。
 小泉首相の態度には、自分が正しいと思うことは、人も正しいと思うはずだという独善的な姿勢が見られる。いくら口で「中国や韓国を軽んじているわけではない。友好関係を大事にしたい」と言っても、態度や行いにそれを示さなければ、相手がそうならないことを理解していない。
 単なる言葉や形式ではなく、過去の戦争についてどういう認識をもっているのかが問われている。その点をきちんとしないから、「靖国神社にA級戦犯がいてなぜ悪いのか。A級戦犯だって死刑になっており、戦没者は選別できない」などと弁護する発言となる。
 講和条約で問われた戦争責任の所在についてどう理解しているのか。もし、A級戦犯に責任がないのなら、誰にあるのか。こうした問題について一言も説明がない。
 こうしたことが中国や韓国との関係を著しく悪化させた。こうなることは最初から明らかだった。分かっていながら参拝を強行したことが一番問題である。
 小泉首相は、アジアの平和と繁栄に逆行する問題を起こしてしまったが、その原因は国際感覚、外交センスの欠如であるように思われる。
 最近、集団的自衛権の行使や日米同盟を米英同盟並みにせよという動きがある。しかし、その前提としての国民的な安保国防議論がつくされていない。しかも、一部の意見に対して、右翼や暴力団が押さえつけようとする動きがあったり、靖国神社問題でも反対を叫べば、右翼や暴力団の妨害を心配しなくてはならないとのことである。憲法で保障されている言論・思想・表現の自由はどうなっているのか。
 国防問題について言えば、一方で引き続き米国に依存すればよいという考えがある。他方で再軍備・核軍備を含めた自主防衛という考えがある。だが、両極端ではなく、第三の道はないのか。そのことが真剣に議論されていない。
 台湾問題、北朝鮮問題についても、不安定要因だとか脅威だとか言ってキナ臭い議論に利用するのではなく、地域の安定と平和の枠組みについてのビジョンを出すべきだ。アジアの平和は、アジアの人間が責任をもって確保する。そのため、紛争・緊張に対しては、問題の根源をなくす努力を行うことが真の外交である。その前提として、わが国が過去の戦争責任を明確にしなければ、アジアから信頼されないということを肝に銘じるべきだ。
 こうしたことをきちんと議論することなしに、わが国の自主的な外交は確立できない。だからこそ、国のあるべき姿や戦争責任や国防などについての国民的な議論が必要である。

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