890625


中国情勢についての声明(解説)


 党中央委員会は六月八日、最近の中国情勢についての声明を発表しました。
 声明は三つの部分から成り立っています。
 最初の項は、最近の中国での事態についてのわが党の政治的態度です。そこでは、「中国での最近の事態は憂慮にたえない」「武力弾圧を正当化することはできない」「決起した人民に罪はなく、その要求は正当なものである」と、簡潔に述べています。また、中国政府と軍部の指導層に、「人民に銃口を向ける政治を即刻中止し、事態を平和的に解決する道を模索するよう強く求める」、さらに「人民の要求に最後的には応えなければならない」ことを要求しています。
 同時に声明は冒頭、わが党が、ブッシュ、サッチャーなど、あるいはわが国支配層などの、反社会主義キャンペーンに反対し、社会主義の側にあることを明確にしています。各種の論調を見るとき、人権、民主主義という余り、帝国主義の反社会主義攻撃に迎合する、あるいは鵜呑みにするような傾向が多くみられるわけでこの点は重要なことです。われわれはこうした傾向に決して組みしません。
 日共修正主義は、ただ選挙での票目当てに、反中国キャンペーンを全国いたるところで強めています。しかもこともあろうに、自民党政府に「中国政府に対して厳しい抗議の態度を明確にするよう強く要求」さえしています。ブッシュやサッチャーのようにやれとでもいう、帝国主義と何ひとつ変わらぬ極めて犯罪的な主張です。断じて許すことはできません。

 第二項では、まず今回の事態について、「すでに十ヵ年を経過した改革路線の複雑だが一つの帰結」と指摘しています。
 中国では、一九七八年「三中全会」以降、停滞した経済の立て直しや石油ショック後の資本主義の急激な技術革新への対応などもあり、プロ文革の否定として経済の発展に力を入れる方向がとられました。八二年(十二回大会)には、今世紀中に生産を四倍化するという「四つの現代化」が、八七年(十三回大会)には、生産力発展を最優先する「社会主義初級段階論」が公式に決定されています。また、最近は、中国が労働力を提供し、原材料も、商品市場も外国に頼るという「沿海地区経済発展戦略」も登場しました。
 この結果、確かに生産は七八年以来、急速な発展をとげました。しかし、社会主義の特徴とも言うべき「権利として平等に暮らせる社会」に歪みがでるなど、さまざまな矛盾も噴出しました。多くの論調が、今回の事態を、昨年の価格改革とインフレの激化、商品経済拡大による豊かな者とそうでない者の格差の増大、さらにはこうしたなかで私腹を肥す官僚達の存在など、改革政策と結び付けて説明しているとおりです。
 しかし「声明」が、「今回の事態は、改革路線の複雑だが一つの帰結であり、一般的には予測し得る一つの可能性であった」とのべているように、今回の事態は改革路線の「帰結」にはちがいありませんが、改革路線の必然的帰結ではありません。いくつかある可能性の内の「一つの」だと見ています。
 わが党の大隈議長は今年の党の旗開きで、つぎのように言っています。
 「社会的な所有、つまり国有や公有などの所有関係から、公然と私的所有関係(私企業、株式会社その他)が急速に、社会主義諸国の内部でおこりはじめています。言ってよければ、いろいろな条件をつけなければなりませんが、社会主義の国の中で資本主義的なものが急速に登場している。・・・あわせて、外国資本に対して大幅な譲歩といいますか、外国資本を導入することによって、外国企業もほとんど無制限に入るような方向にあります。・・・暮らし向きが良くなる、いうとことろのGNPで成功する国がでてくる可能性があります。非常にあると思います。しかし、いろいろな困難を解決しえず、内乱が起こったりして、良い国をつくろうと思っていたら、無政府主義的になったり、闘争が絶えず、経済建設に失敗する状況も見られると思います。そういう状況がいずれにしても進んでいます(理論誌「労働党」二四号)」
 残念ながら早くも予測したようになってしまいました。
 では、なぜ中国が、このように資本主義的な要素を導入するようになったのでしょうか。また、こうした改革路線をどの様に評価したらよいのでしょうか。
 ごぞんじのように、一般に社会主義国の経済成長は、理由はいろいろ考えられますが、七十年代以降は以前ほど良い状況にありません。また急速に進む資本主義国の技術革新のようなこともあります。そこで各国はソ連の一連の歴史的経験に頼るやり方、いうところの「スターリン型」の社会主義建設を見直し、『改革』路線をとるようになっています。経済改革にはこのように現実の経済建設の必要さがありました。中国の場合はこれに、生産力の問題を極度に軽視したプロ文革の否定もありました。
 理論上は、資本主義的な要素をある程度とりいれる、あるいは妥協する政策そのものは、必ずしも間違いではありません。レーニンが、二〇年代にとった「新経済政策(ネップ)」は、所有問題を含む富農や資本家への妥協であり、外国資本も導入されました。この経験をもとにした経済政策は、社会主義の枠内での、あるいは社会主義にいたる一定の期間の妥協策として、理論上も認められてきたことです。中国でも、あるいはゴルバチョフにしても、ある時期、今回の改革政策をレーニンを引き合いにだして説明していました。
 ですからわれわれは、「改革」政策はある程度必要で、かつ理論的根拠も無いわけではないと見ています。声明が「改革路線の一つの帰結」といっているのは、改革路線一般を決して否定してはいないのです。

 この問題をもう少し説明してみます。
 大隈議長は旗開きでつぎのようにも述べています。「いま進んでいるもの(改革政策)は、それほど短期なことではなく、もう少し長期にわたる路線のようです。しかも、レーニンの時には、社会主義的な所有関係にいたる途中での、妥協政策と見られておりましたが、いまやられているのは、計画経済という一連の経験を経て、それだけではやっていけない、と新しい形として模索されつつあります。それが、最近の市場経済の導入なんです。」「冷静に見ますと、国内に私的企業家つまりブルジョアジーが登場し、そこで働くプロレタリアートが新たに生まれている、そういう混合経済的な面が急速に拡大しています。ですから、私たちは、従来とは相当に変わった状況が進みつつある、と見なければならないと思います。・・・そして、また事実、国内にいろんな社会層が現れるわけですから、社会主義について、あるいは、世界観についても、当然、多元的にならざるをえません。・・・つまり、きわめて混合的な、そういう生産諸関係の上で、さまざまな社会層があれば、さまざまな見解があらわれる、長期にわたれば、やがてはそれは政党に不可避的になるんだと思います(同前)」
 今回の事態は、中国が改革政策を十年間やってきた間に、政策自身を理論上もさらに発展させ、ブルジョア的なものも含めて気がかりな理論もあらわれたこと、また十年間の間の実際の改革政策の結果として経済・社会自体が相当に変化したこと、また、これらと結び付いて、社会主義についての考え方や世界観も相当に多元化したこと、などを示しているとも見ることができます。そうした意味で「改革路線の複雑だが一つの帰結」といえます。

 つぎに声明が「決して中国的な特殊性として片づけられるものではない。普遍性もある」と述べた部分についてです。
 やり方はそれぞれ違いもありますが、基本は同じで、東欧諸国の多くも改革政策を進め、いくつかの国では中国と同じか、先に行っています。特にソ連がこの方向をとり始めてから、各国は大々的に改革政策を始めています。
 たとえばポーランドでは、資本主義国との経済交流を早くから進め、その結果とも結び付いて八一年には「連帯」の闘争に搖れました。以降も軍政のもとで改革政策を進め、今回初の総選挙が実施されました。その結果、完全自由選挙の上院では百議席中、第一回投票で「連帯」が九十二議席獲得し(残り八議席は第二回投票、ほぼ連帯がとると予測される)、また首相や党・政府要人が軒並み落選という、実に惨めなものでした。人民の党や政府への激しい不満、怒りは何も中国だけではないのです。しかし、このように自由選挙や複数政党制などの政治改革を進めれば、人民の不満はおおむね選挙などで平和的に吸収され、八一年の連帯や今回の中国のように爆発しないですみます。しかし、これにも大きな問題が残ります。
 ポーラドの今回の結果が示しているように、社会主義を進めようとすると、よほど大衆としっかりと結び付いた党でないかぎり政権を維持できないと言う根本問題が存在するわけです。しかも外部からは、社会主義を滅ぼそうと、アメリカなどが公然と「連帯」を支援するなど、介入を強めています。
 最も早くから改革を進めたハンガリーでは、また別の展開を見せています。複数政党制なども導入しただけでなしに、さらに最近「プロレタリアート独裁の放棄、社会主義陣営からの離脱」などを宣言したナジ元首相の復権を決めました。ハンガリーでは「共産主義者」が先頭にたって、社会主義からの離脱を準備しているとみられています。
 このように、これらの国には、生産諸関係のなかで資本主義の拡大を必要とする社会層が現に存在し、それを基礎に、どの勢力から発生したかは別に、社会主義の放棄、西側の一員を目指す政治勢力がすでに公然と存在し、合法的に闘争がやられているわけです。帝国主義はそれを支援しています。
 中国の今回の事態も本質的には同じです。「声明」が「決して中国的な特殊性」ではないとか、「普遍性もある」といっているのはこのことです。中国的事態か、ポーランドか、あるいはハンガリーか、それは別に、社会主義の改革政策は、全体としてきわめて憂慮すべき事態に直面していることは間違いありません。
 多くのブルジョア論調が、「中国の特殊性」として、進んだ経済改革に対して遅れた政治改革と説明し、政治改革を要求しています。しかし、社会主義の枠をはずれた経済改革と結びついた「政治改革」では、ポーランドやハンガリーと同じで、資本主義への道を一段と、すなわち政治的に掃き清めるだけで、きわめて危険な道に他なりません。
 ところで「新理論」をふりまいているのはソ連のゴルバチョフ書記長です。最も改革の遅れたソ連では、政治改革を先行させて不満のはけ口をあらかじめ作り、その上で経済改革を本格化させようとしています。人民の不満を高めることを予測しているからでしょう。ところがゴルバチョフは「世界経済は単一の有機体となりつつあり、それなくしては一つの国家として、国家がいかなる社会体制に属していようとも、国家がいかなる経済レベルにあろうとも、正常に発展することはできない。このことは、世界経済の機能の原則的に新しいメカニズムと新しい国際分業構造の作成を緊急課題としている(八八年十二月国連演説)」などと、新理論のようにして、社会主義の放棄、資本主義への限りない接近を正当化、賛美しています。これは帝国主義への完全な屈服に他なりません。
 「声明」は、改革路線で「社会主義建設」を進める指導者たちが、今回の中国の事態を教訓とするよう、強く希望しています。

 第三項は、今回の「血の教訓」をどう生かし前進するかです。「声明」では、「社会主義建設途上での『何がマルクス主義か、何が修正主義か』今回の事件はそれに大きな示唆を与える」と述べています。五〇年代後半から中ソ論争、中国でのプロ文革などさまざまありましたが、どれが真に正しい社会主義建設路線なのか、われわれの理解するところ結論が出ていないか、少なくとも論争の余地があります。しかし、今回の中国の経験、さらにポーランドやハンガリーのようなこともあり、経済建設で何が修正主義かは、以前に比べ相当に分かりやすくなったのではないでしょうか。また、人民大衆から浮かず、大衆に深く根ざし、その力に頼って社会主義をつぎつぎと前進させる、前衛党問題の重要さを改めて示しています。
 とくに中国では、プロ文革を否定した改革路線十年の「一つの帰結」としての今回の事態です。その意味で「声明」が「今回の経験、人民の血の教訓は、社会主義発展の新しい前進のためにの偉大な契機、歴史的事件となる可能性がある。また、なさねばならない」といっている点は示唆に富んでいます。
 いずれにしても、「(社会主義建設で)何がマルクス主義か、何が修正主義か、今ははっきりしていないが、やがて、社会主義国のいま進めている実験の中で、比較的わかりやすいものとして、あれはいかんかったな、これは比較的正しいんじゃないか、と問題が次第に明らかになるんではないですか。それに、いったん権力をとり、社会主義建設が始まったら、永久に、まっすぐ進み、成功する、それしかないという理屈はないと思います。私は共産主義者として、世界は一歩一歩進むんではないかと思い、非常に大ざっぱですが楽観主義の立場をとっています(大隈議長)」といった考え方を堅持し、われわれは前進します。
 「声明」の呼掛けのように「決意を新たに」たたかいぬきましょう。


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