2000年旗開き

危機に立つ支配層
共同の闘いへ熱気あふれる


 党中央委員会主催の「二〇〇〇年旗開き」が一月十六日、東京で開催された。旗開きには、各界の人びとや同志が多数参加し、闘いの熱気あふれるものとなった。第一部では、党中央委員会を代表して大隈鉄二議長があいさつし、危機に立つ支配層を打ち破る方向を提起し、共同の闘いを呼びかけた。沖縄からは玉城義和県会議員が、重大なときを迎えている闘いの特別報告を行った。さらに、「広範な国民連合」、日教組、国労闘争団、新社会党中央本部、日本書店組合、部落解放同盟東京都連、朝鮮総聯の各代表などが来賓あいさつを行った。旗開きは、資本主義のイデオロギー攻勢に反撃し、各界の人びとに共同の闘いを呼びかける、新年の幕開けにふさわしいものとなった。以下大隈鉄二議長のあいさつ(要旨)を掲載する。

 おめでとうございます。
 お忙しいなか、党の旗開きに多数おいでいただきまして、お礼を申し上げます。
 昨年の国際、国内関係について、一言触れてみたい。
 国際関係では、昨年も非常に大きな変化をみた。例えば、インドとパキスタンが一昨年の核実験の後、昨年は核を運ぶミサイルをもった。それで「核保有国」かどうかが議論となったが、現実には大国の核独占がうち破られた。
 また昨年三月からはユーゴ爆撃が始まり、米国は必要な時には世界のどこにでも無謀な介入、爆撃などをするということをやった。これは、米国に従わなければ国連でさえ公然と無視することだ。北大西洋条約機構(NATO)の戦略概念をこれまでと変えた。その他、インドネシアの政変などがあった。
 国内では、四月に統一地方選挙があり、自民党が大阪のような大都市で候補者を立てきれず、凋落(ちょうらく)ぶりを示した。
 また昨年は、新ガイドライン(日米防衛協力の指針)法案が成立した。自自公政権は正式には十月に発足したが、それ以前から事実上、公明党がかかわっていろいろな反動的な政策、法案を成立させるという状況となった。

「20世紀はどんな世紀だったか」

 今年は二千年紀に入ったが、この二十世紀についてわれわれがぜひ確認しておくべきことについて触れてみたい。昨年からマスコミは「二十世紀とはどんな時代だったのか」ということについて、盛んに論陣を張っている。
 二十世紀は、ロシア革命が一七年に起こり、二次大戦後は東欧、朝鮮、中国に広がり、その後キューバ、ベトナムなどで革命が起こった。
 これらの革命と二次大戦でのヒットラーをひとくくりにして、「全体主義」と総括している。この「全体主義」で、二十世紀前半はどれだけ人が死んだかということを書きたてる。また、革命をいかにも悲惨に描く。
 しかし、二十世紀前半に起こった二度の大戦は、基本的には資本主義の危機と市場争奪を前提に列強間の利害と関連して引き起こされた。これは、最近まで常識であった。
 確かにこんにち、社会主義の歴史的な後退と資本主義のイデオロギー大攻勢とが結びついて確信が揺らぎ、思想政治上、大きな後退をしている。だが、こういうマスコミの見方に、われわれが断固たる反撃をしないと、これから労働者階級がどうやって圧政と闘うことができるだろうか。
 ロシア革命は、一次大戦のさなかにロシアの労働者階級がツアーに反対して戦争を止めたものだ。パンと土地と平和のために労働者階級が政権を握り、世界平和にも大きな貢献をした。革命はロシア諸民族の解放や、全世界の植民地解放に向けた民族闘争の高揚にとって、大きな貢献をした。その後、労働者階級の政権は一定の地位を占める世界体制にまで広がった。
 昨年末、二十世紀の記録を放映したNHKテレビは、革命を悲惨に描こうとした。革命は経済状況が最悪の時で、当然ロシアは食糧危機が続き餓死者が出る。それは革命のせいではない。革命をやらなければ戦争が続き、人民はもっと悲惨な目にあう。その時、諸外国から食糧援助の運動が起こったが、それを阻止したのは、ロシア革命に反対する英国を中心とする連中だった。連中は、こうして餓死者を増大させたという事実がある。
 さらにカンボジアでポル・ポト政権が何百万も殺したという話があるが、それをうのみにすべきではない。こうした世論は、かれらを悪者にするために仕組まれたものだ。
 ヒットラーこそ、間違いなく全体主義である。かれらが政権をとれた背景をみると、そこには後進の資本主義、帝国主義がある。ドイツの企業家たちの熱望と必要さにこたえてヒットラーは登場した。こうした連中と革命とを一緒にし、歴史を書き換えてはならない。

世界はまた激動へ
 しかも、資本主義はこんにちの危機の打開について、全く展望がない。この九〇年代、かつて戦争や革命が起こった原因があらわになり、かつてを想起させるような現象が日常的に見られる。現在、列強が生き残りをかけて激しく闘い、大恐慌の時のように失業者があふれている。
 さらにこんにちの資本主義の不正常さは、世界の貿易・サービスで動くカネの百倍ものカネがダブついている現象一つみても分かる。短期資金は、世界の利があるところに殺到し、翌日逃げ出すとそこは地獄に落ちる。それがアジア経済危機だった。この問題は、かつてのメキシコ危機の時にすでに指摘した。
 したがって、ドルを頂点とする世界の金融構造に対する何らかの規制要求は、第三世界や列強で日に日に強くなっている。マレーシアのマハティールの外資規制策は、当初非難されたが、今では逆に国際的に評価されている程だ。だが、米国は規制策を簡単には容認せず、世界の経済混乱が再三引き起こされることは不可避である。
 二十世紀初頭に「戦争と革命の時代」をもたらした根源、世界激動の理由が、今また世界情勢の基礎の中に大きく成熟してきている。世界の激動が、二十一世紀は繰り返し現れるに違いない。

政局について

保守党の政治戦略

 国内の問題で、少し触れてみたい。
 自民党はこんにち、選挙の絶対得票率が二〇%を割り、国民の支持をもはや五人に一人も得ていない。三党連立でやっと命脈を保っている程、凋落した。
 危機にある保守党の政治戦略を見抜いておくことは、われわれが闘い勝利する上で、不可欠である。
 自民党のここまでに至る政治戦略は、基本的に戦後の吉田政権時代に原型がある。それは、政党については二大政党論で、第二党として「穏健な社会党」の育成をめざし、共産党は徹底的に排除した。また階級政策では、いわゆる「バラマキ政策」によって農民と中小商工業者を戦略的に重視した。
 まず社会党対策である。吉田時代の四七年、総選挙で社会党が第一党になった。そこで吉田は、片山内閣の成立前後、社会党に対して共産党や党内左派を拒否するよう執ように圧力をかけた。吉田があくまで「穏健な社会党」を求めたからである。社会党はこれを受け入れたのであった。これらの事実は、こんにち闘う人びとにとって非常に重要な経験だといえよう。
労働運動ではその後、共産党、産別と一線を画す総評がつくられた。にもかかわらず翌年、総評は「ニワトリからアヒルへ」といわれるように、また闘うようになった。社会党は左派主導で伸び、統一社会党となる。保守党にとって、社会党は十分満足する政党とはならなかった。労働運動がその背後にあると事を構えるし、労働運動で社会党と共産党が六〇年安保でも統一行動を進めた。
 次に共産党対策では、米国が冷戦を始めた後、吉田政権は共産党を徹底的に排除する必要に迫られた。二次大戦直後、共産党は国会議員は少なかったが、労働運動に大きな力をもっていたからである。米国と日本の吉田政権、企業家が組んで、電産、国鉄などでレッドパージを行い、松川事件など謀略までやって共産党を非合法に追い込んだ。こうして、共産党は日本の議会政治から事実上、四十数年間排除された。
 次に保守党の基本的な階級政策としては、まず農村問題がある。
 戦後の農地解放の中で、社会党や共産党が農民の闘いを組織した。それで、農村における信頼が深まり、四七年総選挙では農村で革新が大きく伸び、吉田は敗北することになる。それで吉田は、「破産」寸前状態の農協に大規模な財政支援を行い、以後、コメを中心にして農民が保守党に依存せざるを得なくさせた。補助金で、農村の地盤を革新から奪還したのである。
 さらに中小企業対策がある。戦後、苦境の中小商工業の間では、共産党系の民商が闘い、これが大きな力をもってきた。吉田はそれに対抗し、補助金で全国に商工会、商工会議所という官製組織をつくり、これもまた保守の地盤とさせた。
保守の戦略転換
 その保守の戦略が九〇年前後、「バラマキ型」から「政治策略型」に変わった。
 その背景には、米国などの強い市場開放圧力、国家財政危機、多国籍企業化した財界の政治(政党)改革要求、労働組合の「国際化」などの事情がある。全体として、自民党の伝統的な政策は続けられなくなってきたのである。
 八〇年代末から九〇年代にかけて、リクルート、佐川急便など多くの自民党中枢が連座する疑獄事件が発覚し、自民党は末期症状を呈する。
 財界も民間政治臨調をつくり、労働組合を巻き込んで政治改革を唱え始めた。自民党を割ってでも新たな政治再編をめざすのが、財界の基本的な考え方であった。その流れの中で象徴的なのが、細川前熊本知事による日本新党結成、細川政権誕生(九三年)である。
 この頃、「反自民」の旗のもとで小沢、羽田など大部分の自民党中枢自身が新党をつくっている。これらが、当時自民党のままでは果たせなかった、事実上の保守の半分と中間勢力による連合政権をつくり上げた。やったことは、自民党が何十年も苦労した小選挙区制制定やコメの市場開放である。
 村山政権の時は、自社さ三党で、今度は「反小沢」の旗が掲げられた。だが、政権の性格はやはり保守と中道の一部という政権、実体は自民党の政治と変わらない。日米安保共同宣言、ガイドラインなどが、さらに進むのは橋本政権になってからだが、これらは公然と村山政権のもとで準備された。村山らは明確に利用されたのである。

二大政党制は実現するか
 今、危機にある自民党は、とりあえず保守党、中間政党の連立を模索しながらも、基本的には二大政党をめざしている。だが、それは実現できるのか。
 かれらにはいくつもの困難がある。一つは公明党の扱いだ。この党はかつて一時期、小沢といっしょの党をつくったこともあったが、創価学会を基盤にしているので、いつでも独自の党として復活する。それで二大政党になるには、この公明党を抱き込んで、保守勢力の一部に組み込めるかどうかにかかっている。
 もう一つは、社民勢力の問題。この問題は、社民勢力を無力化できるかどうかである。現に民主党があっても、連合の中には社民との関係を依然として重視するものがある。敵にとって社民勢力と労働運動の動向は、決してあなどれない。
 労働党は、社民党がこんにち、取るに足らない勢力ではなくて、国民運動として復活し、一定の勢力を保つことを熱望する。そのためには、少なくとも村山政権あるいは山花委員長の時、とった態度について、社会党のためだけでなく全国民、とりわけ労働者のためにいくらか誤ったということをいう必要があると思う。社民党の皆さんがこの時期に何か貢献できるとすれば、労働運動、保守勢力と闘う人たちに希望を与えることであり、その責任はある。
 一部の人が期待する欧州ではやりの「第三の道」は幻想にすぎず、その道での復活は展望がないだろう。
 共産党は、すでに次第におとなしくなっており、今のところ大勢に響かない。かれらは、民主党との野党連立政権を夢みている。だが、自自公が総選挙で多数派を結集出来なければ、保守再編、民主党を巻き込んで再編が起き、共産党は問題にもなるまい。

当面の国政選挙について

 国政選挙について、社民党が安保問題などで若干の修正をすればわれわれは支持したいが、これは社民党の大会を待たなければならない。
 また別に、社民党や新社会党などの人びとが選挙を国民と広く共同して闘おうとすれば、今の小選挙区制では選挙のために新たな党をつくらなければならない。もちろん、それぞれの政党は解散するわけにはいかない。しかし、そういうもとでも、当面の国政選挙で候補者を出し合って、選挙のための党を一時的に形成することを、われわれはちゅうちょしない。
 これは一時的な話ではなく、敵側が二大政党制をたくらんでおり、そこを打ち破るにはこの道はきわめて有効であると確信する。労働者階級と国民の大部分が希望をもって闘う道へ、小異を捨てて団結する必要がある。
 共産党は民主党に対して、あたかも期待できるかのような幻想を植えつけているが、われわれは公明党はもちろん、民主党に幻想を抱いてはならないと思う。

労働党、二〇〇〇年の闘い

 最後に、労働党の今年の課題について。
 第一に沖縄の米軍基地移設問題を全力で闘う。沖縄の人たちは、あくまで基地を撤去するまで闘うに違いない。沖縄の闘争を勝利させることが、日本の保守支配、米国追従の政治、アジアの人たちと仲良くしていかない政治を打ち破る上で、きわめて重要なカギを握っている。この闘いと呼応して全国で闘い、小渕政権をいっそう窮地に追い込む。
 第二に労働運動をいっそう重視したい。労働者、労働組合の中で徹底的な政治暴露を強め、労働者の闘いを激励する。
 また、農民、中小商工業者に対する自民党の政策には限りがある。政府が大企業の横暴、他国の資本からかれらを守らないならば、闘う以外にない。われわれはそういう人たちと連携する。自民党のまやかしを暴露し、中間政党に対する幻想を暴露して闘う。
 第三に学生運動を重視したい。学生ももう職がなく、騒がなければ道はない。時代を切り開くのは青年であり、そういう学生運動を全国規模で発展させたい。
 党建設についても、われわれはとりわけ若い労働者の人たちに熱心に働きかけたい。

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