全国の大学でパレスチナ人民と連帯しガザ地区での虐殺に抗議する闘いが発展している。一部の大学では、当局によるさまざまな規制に抗う形で取り組まれており、この点が特徴となっている。東京の上智大学で運動を進めている「Sophians for Palestine」(SFP、パレスチナのための上智大学生)の学生に聞いた。(文責・編集部)
ーーバックグラウンドを教えて下さい。
Kさん
私は、両親の仕事の関係で、20歳までアジアの途上国に住んでいた帰国子女です。まだ多い貧困層の実情に触れたり、アフリカや中南米出身の友達と交流したりするなかで、パレスチナ問題に関心を持つようになりました。
Mさん
小学生のときから、アフリカ系米国人による公民権運動に関心がありました。差別をなくすための活動に関わっていきたいと思っていました。
2023年10月7日以前は、パレスチナ問題について詳しかったわけではありません。でも、米国のブラックパンサー党(注1)がパレスチナ人と連帯して闘っていたということを知り、パレスチナ問題も知らなければいけないと思うようになりました。
ーー上智大学での運動はどのような経過で始まったのですか。
Kさん
イスラエルによるガザでの虐殺が始まって以降、クラスでパレスチナのことを訴えたり、追悼キャンドルを立てたり、イスラエルから輸入しているレモンをボイコットする行動が始まりました。しかし、あくまで個人レベルのものでした。
「これだけではアピール力がないな」と思い、5月15日の「ナクバの日」(注2)にデモ(アピール行動)を企画し、SFPを立ち上げました。パレスチナ人のハーフの学生を中心で動けたのは、すごく良かったと思います。
パレスチナ問題はすごく複雑ですから、最初は「反ユダヤ主義」のような学生もいました。その後、考え方や運動の進め方について共有を進めたので、今は差別主義的なメンバーはいません。
Mさん
米国の大学でキャンプが始まり、「自分もやりたいな」と思っていました。そのときはまだ、今の仲間たちと出会っていませんでした。SNSでデモを始めようとしている人がいることを知り、仲間に入れてもらいました。
ーー大学側は、学生の取り組みに対し、どのような姿勢ですか。
Mさん
曄道(てるみち)学長は5月末、「ガザ地区の人道危機に寄せて」と題する声明を発表しました。しかし、ガザで起きていることは人道危機などではなく、虐殺(ジェノサイド)です。学長は「上智大学は常に弱い人々とともにあります」と言いますが、それにふさわしい行動をしているとは思えません。
Kさん
6月に大学に要求書を提出しました。イスラエルがガザで行っていることを「虐殺」と公式に認めること、イスラエルのテルアビブ大学との提携関係を破棄すること(アカデミックボイコット)、パレスチナ人大学生への奨学金の提供などです。また昨年末、シオニスト学生が私たちの仲間に暴力を振るったことを調査し、何らかの処分を行うことです。
ただ、2回目のデモを行った際、予定時間を超えたことを理由に「授業妨害」とみなされ、3回目は許可されませんでした。それで、構外でのデモに切り替えました。
以降も私たちの要求書への回答はありませんし、「対話を望んでいる」と言いつつそれも実現していません。大学側の態度は欺まん的だと思います。
Mさん
正直なところ、団体をつくってからわずか1カ月ほどで弾圧を受けるとは思っていませんでした。でも、皆で「勇気ある行動をしよう」と励まし合っています。
ーー今後どのような運動を考えていますか。
Mさん
大学は以前、ウクライナ難民のための募金を行いました。私たちは、それと同じことをパレスチナ人に対しても行うべきだと交渉しています。ただ、大学側はデモ自身を「平和的でない」とみなしているようです。
そこで、募金の実現を優先して運動形態を「ピクニック」(昼休みに集まって語り合う行動)に切り替えています。
これから夏休みに入りますし、海外留学に行く仲間もいます。しっかり議論して、運動を続けていきたいです。
ーーあるべきパレスチナの将来像を、どのように考えていますか。
Kさん
パレスチナ人とユダヤ人が共存できる単一国家の実現が望ましいと思います。
ただ、日本の態度は問題だと思います。イスラエルは、西洋諸国が中東の原油を確保するためにつくられた国です。それを援助し続ける米国や日本には、怒りを感じます。
Mさん
やはり全土がパレスチナ人の手に戻るべきだと思います。ラジカルな要求かもしれませんが、これを言い続けないと、どこかで妥協を強いられてしまいますので。
ーーありがとうございました。
注1・ブラックパンサー党
1970年前後に米国で活動した政治組織で、都市部の黒人貧困層を基盤とした。貧困層への食事配給や無料の診療所建設を行いつつ、武装蜂起による民族主義と共産主義の実現を掲げた。
注2・ナクバの日
イスラエルが「独立」を発表した1948年5月15日を前後して、パレスチナ人約 万人が故郷を追われた。移住を強制されたパレスチナ人と子孫、支持勢力は、このできごとを「ナクバ(大災厄)」と呼ぶ